メッセージ(大谷孝志師)

何が正しいかを知る
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年11月4日
ガラテヤ1:11-17 「何が正しいかを知る」  大谷孝志牧師

 月に一度、パウロが書いたガラテヤ人への手紙を学んでいます。福音書のイエスの話は、優しくて分かり易い印象を受ける人が多いようです。でも私は、山上の説教などの主の教えを真剣に受け止めて考えていると、厳し過ぎて自分には実行できないと思う時が多々あります。それでもパウロに比べたら分かり易いと感じます。イエスが農業や漁業、牧畜をしている人々が日常経験している事を素材にして、聞く人がそうだなと納得できる話をしているからです。それに対し、パウロは神学的、哲学的、文学的用語を多く使っているので、普段の生活とは懸け離れた話ではと感じる人が多いようです。パウロはキリスト者の足りない所、欠けた所を指摘したり、褒めたり、諌めたりしているので、読んでいて、難しいと感じてしまう所もあります。実は私達だけでなく、聖書が書かれた時代の人々も同様に感じていたことが、ペテロⅡ3:16の「(パウロの手紙の)中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます」からも分かります。

 さて、イエスの話とパウロの手紙が違うのは、イエスは人であると同時に神でしたが、パウロは人間だったからです。質的に違っていたのです。それに、福音書の主の言葉は、主が書いた物ではありません。主を見聞きした人々が、主の事が人々に少しでも判るようにと書いた物です。それに対し、彼の手紙は彼が自分の言葉で書いた物です。彼が教会と関わる中で知った問題について、教え、勧めなければならない事柄を、その時という制約の中で書いた物です。ですから、受取人にはよく分かっても、私達には判りにくい箇所があるのは当然です。しかし、彼が聖霊の助けと導きを受け、時代と場所を超えた全てのキリスト者に必要な事を記したからこそ、聖書の中に入れられたのです。そのことを心に留めて読む必要があります。

 パウロが、自分が伝えた福音とキリスト者としての自分の生き方について弁明するのは、ガラテヤの人々が、彼の福音を彼が考え出した物、他の人から教えられた物と考えていたからです。そうではないと彼は言います。福音は主の啓示によって与えられたものだからです。私も教会に来始めの頃は、教会の人達が懸命に語り掛けてきても、それが私にとっての良い知らせ、福音とは信じられませんでした。しかし、信じられた時が来ました。その時、福音が私の内で力となり、私を信仰告白と受浸へと導きました。ですからガラテヤの人達も、パウロが伝えた福音が主の御心を示すもので、彼が神の啓示によって受けた福音であると信じるならば、主に相応しい者になれる筈です。それを願い、彼は自分の過去を正直にさらけ出すのです。

 彼は、彼らが既に聞いていた激しく神の教会を迫害し、滅ぼそうとした自分の過去を正直に記します。彼らがこれからも、エルサレム教会から来た人達のキリスト教の殻を被ったユダヤ教の教えに従って歩み続けることで、過去の自分のような神のみ旨に反する生き方をする者となってはいけないからです。それでは、折角の主の十字架の死が無駄になってしまい、彼らを救う為に自分を選んで福音を伝えさせた主に申し訳ないからです。

 主は、ユダヤ教徒として神の教会を激しく迫害し、滅ぼそうとしたパウロの生き方を180°転向させ、キリストの福音を宣べ伝える者としました。そこにも目的があります。人が律法をいかに熱心に守ろうとしても守りきれないから、神が御子を世に遣わし、主イエスを信じる信仰によって救うことにしたのです。パウロがユダヤ教の教えに徹していたその最中に、イエスが彼に現れました。神に呪われ、十字架に掛けて滅ぼされたと思っていたイエスが、復活し今も生きて働いている、と彼は知ったのです。正しいと信じ込んでいたユダヤ教では、神に喜ばれないと知らされました。彼は自分の人生を根底からひっくり返させられました。彼にとってこの事件を記すのは、自分の恥を曝すことです。だが、彼は敢えてしました。それは、彼らに自分と同じ道を歩ませないことの方が遙かに重かったからです。

 さて、パウロは神が「母の胎にある時から、私を選び出し、恵みをもって召した」と言います。激しく神の教会を迫害した自分が、母の胎にある時から神の恵みの内にあったと告白します。彼がそうであったように、ガラテヤの人々がまだキリストの福音から離れていても、神はその彼らを今も愛し、彼らを正しい福音に立ち返るよう恵みをもって、導いているのです。彼らには分からないが、神がそうしている事実を彼は知らせています。

 「異邦人」は、ユダヤ人以外の人々を指す言葉ですが、ここでは、真の神を知らないユダヤ人を含めた「全ての人」に置き換えて良いと思います。パウロは伝道旅行で、まずユダヤ教の会堂に入り、福音を伝えたからです。

 神が、全ての人に御子の福音を伝える為、御心により御子を彼の内に啓示した時、直ぐにアラビアに出て行きました。御子が啓示されたこと自体が福音です。でもそれは個人に起きた霊的出来事にすぎません。彼が使徒とされたのは他の人にその福音を伝える為です。その働きの為には、神との霊的交わりで福音の伝え方を知る必要があったのです。神は人を用いて福音の内容を告げます。しかし人は弱く、人や自分の考えと御心を混同する時があります。彼も神との一対一の関係の中で、静かに御言葉を聞き、何が正しいかを知る必要があったのです。ですから彼は出て行き、神と霊的交わりの時を持ちました。私達も「何が正しいかを知る」為に神との霊的交わりの時を大切し、日々主の証人として世に生きる者となりましょう。