メッセージ(大谷孝志師)
主に繋がっていれば
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年11月4日
ヨハネ15:1-10 「主に繋がっていれば」 牧師 大谷 孝志

 この箇所の「私」は主イエスのことです。主は自分をぶどうの木に喩えています。主が「わたしにとどまりなさい、繋がっていなさい」と自分に呼び掛けていると気付きましょう。繋がっていると、人生が大きく変わります。主は「まことのぶどうの木」だからです。その主に繋がっているならば、私達は豊かな実を結ぶことができます。

 どんな豊かな実を結べるのでしょう。主は山上の説教の中で「あなたがたは世の光です。…あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」と言いました。パウロもエペソ5:8で「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい」と言っています。私達が世の光だと言われても、自分は少しも輝いていないと思っていないでしょうか。私達は月と同じなのです。月が人であれば、自分では輝いているとは思っていないはずです。でも、私達は月の輝きを目にしています。月によって太陽の輝きを目にするからです。

 私達が世の光と主が言ったのは、真の光である主イエスの光を月のように反射して、闇の世界にいる世の人々を照らすことができるからです。パウロはこの世で光の子どもとして歩みなさいと言いますが、私達が光の子と言って、私達は光から生まれた訳ではありません。光の子というのは光の性質を持つ人という意味なのです。私達が主イエスに繋がっているなら、私達は主から豊かなものを頂き、輝くことができ、光の子となれるのです。むかしのこどもさんびかに「ひかり ひかり」という歌があり、私達は、ひかりのように明るい子ども、元気な子ども、正しい子どもと歌っていました。主から豊かなものを戴いて、そのように生きることが私達が結ぶ実なのです。ぶどうの枝が、幹を通して養分と水分を与えられて実を結ぶように、主イエスを通して神の知恵と力を与えられるからです。

 暗い人生を送るより、明るい人生を送る方が良いと思いませんか。自分がいることで、相手に嫌な顔をされたり、暗くなるより、笑顔になり、明るくなる方が、良いと思いませんか。自分が相手の役に立っていると感じられるほど嬉しいことはないのではないでしょうか。主イエスに繋がっていれば、そのような経験ができ、心が、顔が輝きます。ですから主は「私に繋がっていなさい」と言うのでしょう。私達の方から繋がろうとしなければ、繋がれないからです。主が十字架に掛かって死に、私達の罪を取り除き、清い者として下さったからです。主の十字架によって、主を信じる者は主の恵みの受け皿となっています。繋がろうとすれば繋がれるのです。繋がりましょう。そして主の恵みを一杯に戴きましょう。

 しかし、私達は弱いので、霊的に鈍いので、繋がっているのに、それを実感できない時があります。弟子達もそうでした。主が十字架に掛かって死んだけれども三日目に復活したのに、疑ったのです。主のガリラヤに来なさいとの伝言を聞いて、ガリラヤに行き、指示された山に登り、主に会っているのに、疑う者達もいました。足かけ三年主と寝食を共にし、お話を聞き、奇跡を目にしてきた弟子達もそうだったのです。私達は主を目にできないので、つい疑ってしまう時があります。ですから、主イエスに繋がろうとする気持ちを、事ある毎に持ちましょう。そして、繋がっていると信じましょう。信じることが大切なのです。信じていれば、主に繋がっていると実感する時が必ずあります。主は私達を愛し、私達が差し伸べる手を掴み、握り返して下さるからです。主はいつも私達と共にいて、私達を見守っています。主に繋がっていることを確信して日々を過ごしましょう。