メッセージ(大谷孝志師)

全てを主に委ねるなら
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年11月11日
マルコ8章30-38節 「全てを主に委ねるなら」  大谷孝志牧師

 ペトロは主イエスに、「あなたがたは私をだれと言いますか」と聞かれ、「あなたはキリストです」と告白しました。それを聞いたイエスは、自分のことを誰にも言うなと彼らを戒めました。なぜでしょうか。彼は正しい告白をしました。ローマやユダヤの支配者達が、大群衆が周囲にいたイエスを危険視していたからです。この告白がそれら体制側に不要な刺激を与えるのを避ける為に、口外するなと命じたと考えられます。また、弟子達が主について正しい認識を持っていなかったことも理由の一つです。

 「人の子」は主自身の事です。主は自分がこれから先、どうならねばならないか、つまり、神がどんな計画を立てているかを主は全て知っていました。その事を弟子達にはっきりと教え始めたのです。しかし彼らは主が告げる事を、自分達の経験と理解力によってしか判断できなかったのです。

 「すると」とあります。これはペテロが主の話を中断させたことを表しています。彼が主を「脇にお連れし」たのは、自分は正しく、主が間違っていると思い、主の間違いを、他の弟子達に分からないように主を諫めたいと思ったからです。彼が主を「諫めた」のと主が彼を「叱った」の両方に同じ言葉が使われています。彼は自分が上から主を見下しています。しかし彼はその上から目線に気付いていません。主は御子として、彼より上にいる方であり、彼は人であるのに、自分を主より上に置いているのです。私達も信仰生活において、気付かずに自分を主より上に置いた言動をしていないか吟味すべきでしょう。その時、私達も「神のことを思わないで、人のことを思っている」と、主に言われるようなことをしているからです。

 「イエスは振り向いて弟子達を」とあるように、彼を含めた弟子達皆が主の受難はあり得ないと考えていたのです。マルコが、主が「このことをはっきりと話した」と付け加えたのは、受難は神が定め、主が歩まねばならない道と強調する為です。彼は、主に従わないことを表明し、サタンの代弁者となりました。だから、主はペテロを「サタン」と呼んだのです。

 ペテロは、主イエスと共に生きる人生を、自分で思い描いていました。その自分の道に主を当て嵌めてしまったのです。私達も主イエスと共に生きる道を選びました。その道を歩んでいます。私達は自分の意志でこの道を歩んでいると思っていないでしょうか。聖書はそれは違うと私達に教えています。それでは主に従っているとは言えないからです。サタンに隙を与えているのです。サタンは、私達が気付かずに、自分で決めた自分の為の道を歩むのを喜んでいます。その時、私達の心が神から離れ、神を第一にせず、自分を第一にしてこの世で、教会で生活しているからです。主はペテロを叱責した後で、群衆を弟子達と一緒に呼び寄せました。そして自分に従う者の道を明らかにします。それが全ての人に必要な事だからです。

 群衆を弟子達と一緒に呼び寄せたのは、弟子達は全てを捨てて主に従ってきましたが、群衆は主に必要なものを与えられることを求めて付いて来ました。主は群衆にも従うことを求めたのです。主は、私達が礼拝に来て、御言葉を頂き、恵みを受け、力を与えられることを求めて主と共にいるのではなく、全てを捨てて主に従うことを求めています。それを神が望むからです。人が一人も滅びることなく、永遠の命を持つことが神の計画です。世に遣わされた主が「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで(神に)従われ(ピリピ2:8)」たように従うことを、私達にも求めています。

 主が「私に従って来たければ」と言うのは、神が望むことであっても、従う従わないは人の自由だからです。主は、まず人の決断と行動を求めます。そして、従いたいと願うなら、自分を捨てよと言います。自分を捨てるとは自己を完全に否定し、自分の全てを主に明け渡すことです。人は自分を無くすのはとても無理と普通は考えます。しかし主は、自分への執着を捨てよ、自分から自由になれと言います。自分に執着すると、自分のものに執着し、神に目が向かなくなります。自分を自分のものとしている限り人は神のものになれません。神が支配する世界、神の国に生きられないのです。神の国は今、ここにあります。人を心から信じられ、人と共に生きる自分の人生を希望を持って生きられ、周囲の人々を、自分の隣人として自分を愛するように生きられる世界、それが神の国です。主イエスを信じ、自分を捨て、神のものになるならば、この世で神の国に生きられ、肉体が滅んでも、世の終わりに復活し、神、主イエスと、共に永遠に生きられます。だから「自分を捨てよ」と主は言い、私達に決断を求めるのです。

 次に「自分の十字架を負って、私に従え」と言います。自分の十字架を負うとは、重き荷を負うということだけではありません。自分が罪人だと世に知られることです。自分の罪を隠さず、そのままの姿を示すことです。自分を捨てることにも通じます。そんな自分を思うと、自分は本当に生きるに値しないと思ってしまいます。でもそんな私に主が生きよと言います。そこに私にしか生きられない人生が用意されているからです。その道を歩む、それが自分の十字架を負って主に従う人生です。暗い人生ではありません。光に溢れた世界、主に従い、主が共に生きて下さる人生だからです。

 主を信じるなら、自分の命に固執しません、主の為、福音の為に自分を捨てられます。「命」はこの世の命と世の終わりに現れる朽ちない命の両方を含みます。人は自分の命は自分のものと思うから、世の命を失いたくないと思い、世の物事に執着します。自分が神のものであることを忘れます。主と福音の為に肉の命を失っても大丈夫なのです。主には全てが可能です。自分の命を主のものにするなら、朽ちる肉の命に朽ちない永遠の命を着せて貰えます。神が私達に勝利を与え、永遠に神と共に生きる者とするからです。安心して自分を捨て、全てを主に委ねて主に従って生きましょう。