メッセージ(大谷孝志師)

主イエスの真の姿
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年11月18日
マルコ9章2-13節 「主イエスの真の姿」  大谷孝志牧師

 主イエスはペテロとヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登りました。そこはピリポ・カイザリヤ北東20㌔の標高2800㍍のヘルモン山と考えられています。主の御姿が変わったのです。ヨハネ1:14にあるように、彼らは主の栄光に輝く姿を見ました。主の衣の白さが、主が神であることを示しています。イエスは自分が神であることを、弟子達に分かるよう姿を変えたのです。理由は、彼らにとって主イエスは確かに素晴らしい先生でしたが、やはり、人としか見ていなかったからです。彼らに、主の真の姿を見せる必要があったのです。主をキリストと告白したペテロに主が「下がれ、サタン」と言ったのも、彼らが主が全ての人を救う為、十字架に掛かって死ぬ為に世に来たという主の受難の意味を正しく理解していなかったからです。

 彼らが山に登ると、エリヤがモーセと共に現れ、イエスと語り合いました。エリヤは預言者を代表し、モーセは律法を代表し、二人はユダヤ人にとって最高に偉大な人物です。主が栄光に輝く姿でその二人といたのは、主が、イザヤ12:1-6の「神が民の為に救いとなり、神の民の中におられる大いなる方」なのだと示す為です。主と彼らは別格なのです。しかし受難告知の意味を悟れなかった彼らは、この事の意味も理解できず、幕屋を三つ作ろうと言って、主をモーセとエリヤと同格にしてしまいます。十字架に掛かって死ぬ為に人となって主は世に来たのに、栄光に輝く姿のまま地上にいて貰いましょうと言ってるのと同じだからです。弟子達にしてみればこの光景は、見えない神の国が見える形であり、自分達がそこにいることです。それはユダヤ人である彼らには非常に恐ろしいことだったのです。彼らは、恐怖に打たれ、今自分が正しいと思う事を口に出してしまったのです。、主は神であるのに、全ての人の罪を贖う為に、自分の命を捨てて、自分の十字架を負って歩み、十字架に掛かって死ぬ為に世に来ました。しかし、それが彼らには判らなかったのです。ですから主は、自分の神としての真の姿を彼らに見せたのです。主がそうしたのは、それだけが目的ではありません。彼らが、主が歩んだ道を主に従って歩み、神の計画を実現する為の働き人となるなら、彼らも世の終わりに主と同じ栄光に輝く者になれることを示したのです。彼らには想像も付かない事でした。ですから、その事を明らかに示す為に、父なる神が直接彼らに「これはわたしの愛する子、彼の言うことを聞け」と語り掛けたのです。私達も復活の主が共にいると信じればよいのです。聖餐式で味わうように、主は私達一人一人と共にいて教え導くからです。私達もまた、見えない神の国にいるからです。

 8:30で主は、自分がキリストだと誰にも言わないよう弟子達に命じましたが、ここでも主が死人の中から復活する時までは、今見た事を誰にも話すなと厳しく命じます。彼らが主を正しく理解できないでいるからです。

 彼らは、主が自分は殺されるが、三日目によみがえると話すのを聞いて、そんな事はある筈はないと思いました。彼らにとって、主イエスは他に例を見ない素晴らしい先生でしたが、エマオ途上で二人の弟子が言ったように「言葉にも行いにも力のある預言者」に過ぎなかったのです。預言者と言っても、先の事を言う人ではありません。神の意志を知らされ、神の意志を人々に伝え、実行する人ですが、普通の人間だったのです。彼らにとって、自分達が神と共にいると知ることは恐怖そのものでした。その主が変貌し、遙か昔のエリヤとモーセと一緒にいるのを見たのです。彼らが、恐怖に打たれ、混乱したのは当然です。しかし神は彼らを放置しませんでした。その時、神の臨在を示す雲がわき起こり、彼らを覆い、神がイエスの言う事を聞けと語り掛けたのです。死人の中から復活すると言った主の言葉の意味が分からず、互いに論じ合う彼らの心の内を知り、放っておかなかったからです。私も教会に来て、主が私の罪の為に十字架に掛かって死んだことは理解でき、主が自分に語り掛けた体験から、今共にいることは否定できなかったけれど、復活するとはどういうことか合理的に説明できず、混乱した経験があります。しかしある時、主の愛に包まれている自分を知り、主が復活したからこそ、今の自分があると知りました。それは理屈ではありませんでした。事実と実感したのです。主が神学生になっても尚、心の内で葛藤している私を知り、答えを与えたのです。感謝でした。

 弟子達は、主の素晴らしい変貌の姿を見ても、モーセとエリヤが目の前に現れても、何故主が世に遣わされ、十字架に掛かって死ななければならないのかが判らないままです。神の力の偉大さと自分達の罪の深さが分からないからです。 私も主をこの目で見たいと思った時があります。主が事実いるのが分かれば信じられると考えたからです。教会に行き始めて60年近くになりますが、まだこの目で見たことはありません。しかし、主が私の罪の為に十字架に掛かって死に、その血によって罪が贖われたから、私は救われ、主を信じ、神が支配する世界に生きていると信じています。私と共に歩む主の恵みを頂きながらこれ迄生きています。しかし、主の変貌した姿とモーセ等の姿を見ても、主に「お前達は本当には分かっていないよ」と言われた彼らのように、迷い、悩んだりしています。私も本当には分かっていないからです。それでも善いと思っています。主に助けられ、教えられ、導かれていると感じるからです。私達は人間です。神の子と言っても主イエスとは違います。罪にまみれて世に生きています。それでも主の恵みを感じながら生きています。主がこのような私達を愛しているからです。主は自分を正しく理解できないでいる弟子達を切り捨てず、優しく包み込み、共に歩み、彼らの為に十字架に掛かって死に、復活し、彼らに福音を伝えさせました。主がそのような方だから私達は今ここにいます。十字架と復活の主に感謝しつつ、今週も元気に世に生きていきましょう。