メッセージ(大谷孝志師)
人となられた神
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年12月23日
ピリピ2:6-11 「人となられた神」 牧師 大谷 孝志

 朝も言ったように、クリスマスはイエス様の誕生日ではなく、誕生を祝う日です。紀元前4〜6年のそれ程寒くない時期と思われます。3世紀の初め、あれ起算取りやのクレメンスが、降誕日を5月21日と定めましたが、時期としては妥当です。12月25日に主のご降誕を祝うようになったのは、キリスト教がローマに広く浸透し、定着し始めた3世紀末頃からです。その当時のローマで、冬至後に行われた「太陽の誕生祭」に対して「義の太陽の出現」としてのキリストの降誕が祝われ始めたのです。今ではこの日に全世界でクリスマスが祝われています。今朝も私達の教会ではクリスマスをお祝いしました。今晩も静かに、私達の心を照らす義の太陽として世に生まれた救い主イエス様のご降誕をお祝いしましょう。

 ヨハネの福音書に「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。…ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とあります。何故、神様のことばがイエス様という人となって世に来たのでしょう。世界の神話の神々は人と変わらない姿です。しかしキリスト教の神様は、人の姿をしているかどうかは分かりません。ご自分の意志を伝える時は人の姿をした使いを遣わしたり、様々な自然現象を通してご自分の存在を示しますが、ご自身の姿を現すことは決してありません。例外的にアダムとエバはエデンの園で神を見たようです。しかし罪を犯し、神様と全く異質なものとなり、神様との関係が断絶しました。人は本当の自由と平安を失ってしまいました。神様は人にそれらを与えようと働き掛けたのですが、人が頑なで、その生き方を変えようとしなかったので、神様のことばが人となり、人が全く新しい生き方ができるようにされたのです。

 他の人を見ていて、癖、考え方、生き方が気になることがあります。最初は我慢しても、自分が我慢しているのに、相手が変わらないと思うと、言わなければ分からないと思い、口に出して言います。言われた相手が、自分が悪いと気付いた時、或いは他人にそう見えるか、直した方が良いと思えば直し、そのままで良いと思えば直しません。でも性格は簡単に変わるものではありません。その人の内にどっしりと根付いているものだからです。祖父母、両親から生まれついて受け継いだもの、家族、友人、教師、尊敬する人を見て生きる中で自分のものになったものですから、他人がイライラした所で、簡単には変わりません。そこから、人間関係のもつれやこじれが生じることがあります。人に染みついている罪も性格以上に、深刻に人を傷付け、人間関係を破壊する場合があります。しかし暗闇の中で鏡を見ても、顔の汚れに気付かないように、心が闇のままだと、自分の弱さ、醜さに気付けません。心を照らす光が必要なのです。その私達の生き方を変える為に為に神のことばであるイエス様が暗闇を照らすまことの光として、世に来て、十字架の死という大きな犠牲を払われたのです。人は自分で自分の性格は変えられません。人の頑なさは自分ではどうにもならないからです。神様にしかできないことなのです。だからこそイエス様が全ての人の頑なさを打ち破る為に人となってこの世に生まれ、一粒の麦となられたのです。差別用語で、使っていけない言葉で『馬鹿は死ななきゃ治らない』という浪曲の一節がありましたが、人の頑なさは神様が人となって死ななくてはならない程強烈なのです。自分を深く省み、自分の頑なさとその私達を新しく生まれ変わらせる為に真の光として世に来て、死なれたイエス様の深き愛を心に刻みつつ、この時を過ごしましょう。