メッセージ(大谷孝志師)
主に愛された私達
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年12月30日
ローマ10:14-18 「主に愛された私達」 牧師 大谷 孝志

 主イエスは全ての人の主、救い主です。ですから主イエスを信じる人は失望しません。主を呼び求めるなら、皆救われるからです。でも、私達がそうでしたが、主イエスのことを聞かなければ信じなかったし、呼び求めることもしなかったのではないでしょう。私達に宣べ伝える人がいたから、私達は主について聞くことができました。でも、その人達はどうして私達に主のことを伝えたのでしょうか。それは主が、私達を救う働きをさせる為に、遣わしてくださったからです。

 主は復活した後、弟子達に会い、彼らを遣わしたと福音書に記されています。彼らは主が十字架に掛かって死んだことは分かっていました。でも、主が復活したことについて確信していませんでした。女性達から主が復活したと聞いていても、彼ら自身の内に確証がなかったからです。ですから主に命じられたガリラヤの山に登って、そこで主に会った時、疑った者達もいたと聖書は正直に記しています。しかし、主は近付いてきて、その彼らを福音宣教に遣わします。疑っているかどうかは全く問題にしていないのです。彼らがご自分の前にいることだけが。彼らを遣わす為の条件だったと言えます。主は、私達の信仰をも全く問題にしていないと気付かされます。主を信じることは人に難しいことです。それでも、主の前に出て来る者を主は愛をもって包み込んでくださると知りましょう。

 私達も世の旅を終えて、主を礼拝する為に教会に来ます。感謝ばかりではないでしょう。主が共にいることを疑ったり、御旨がどうしても分からなくなる時、悲しみ、痛み、愚痴る時もあるでしょう。しかし、自分の意志で御前に出る時、そこにいる主が見える訳ではなくても、主が見ている、聞いていると信じて主を礼拝するなら、その人は主の愛に包み込まれているのです。素晴らしいことです。主は、聖書を通して御言葉を語り掛け、祈りを通してその人の心に御心を語り掛け、主に愛されているという平安を与えて下さるからです。主は、疑い、不信感を抱く者を決して切り捨てられません。その人が主に求めるから、主を愛しているから、疑い、愚痴ると知り、慰め、励まし、立ち直らせて下さるのです。私達はその主を信じ、礼拝していると知りましょう。心から感謝し、安心できます。

 さてガリラヤの山で弟子達に会った主イエスは「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じました。でも、私達は、家族や友人知人を強制的に弟子にはできません。人々が、自分の意志で主に従い、全てを主に任せ、主の新しい掟を守るよう教えるという働き掛けしかできません。そこで大事なことは、主が私達を愛したように、私達がその人達を愛することなのです。主が私達をそのまま包み込んで下さったように、私達も世の人々をそのまま包み込んで愛することなのです。そんな事はできないと思うかもしれません。でも、それが私達がこの世でキリスト者として生きていく上で大切なことなのです。私達が福音を伝え、キリスト者として生きるには、御霊に従い、導かれて歩むしかないことを、主が私達に教える為です。私達はこの世に生きていると、様々な事に葛藤し、悩んだり傷付いたりします。だからこそ、主は、主にしか頼れない状況に私達を置くのです。主にしか頼れない状況でこそ私達は祝されるからです。主が私達を福音宣教へと押し出そうとするのは、私達自身の為なのです。私達が世において生き生きと生きる為、主が共にいると知る為、私達を慰め、励まし、立ち直らせる為なのです。主は世の終わりまで、いつまでも共におられます。感謝です。