メッセージ(大谷孝志師)

私達に相応しい礼拝を
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2019年1月13日
ローマ12:1-5 「私達に相応しい礼拝を」  大谷孝志牧師

 2019年の新しい歩みが始まっています。この教会の大切な働きの一つとして昨年から始まったオープンチャーチ【タラント】も8日多くの方が集い、楽しく賑やかに行われました。その方々の中からクリスマスの礼拝に出席する方々も与えられ、感謝でした。また、祈祷会も祝され、特に、夜の祈祷会に向島にお勤めの女性が初めて出席しました。同盟の教会に親戚がいて、幾つかの部会の教会にも出席されたことがある方でした。そして、私達の教会のHPを見て、よい印象を持って祈祷会に来たとのことでした。

 主は私達に新しい年を与え、この年もこの教会を祝福していると知らされ、心から感謝しました。全ては神の憐れみによります。昨年一年、私達は様々な出来事に翻弄されました。その中でも主は一人一人を愛し、支え、必要な時に必要なものを与えて、2019年を迎えさせて下さいました。もう三週間前になりますが、私達は主イエス・キリストのお誕生を多くの人々と共に祝いました。主はなぜ、あのような恵みをこの教会に与えたのでしょうか。主がこの地にこの教会を立てた目的を改めて私達に示す為です。

 パウロが、「兄弟たち、私は神の憐れみによって、あなたがたに勧める」と言うように、この地域の人々をそして私達を主が憐れんでいるからです。何より、この地に住む人々が滅びるのを主が望まず、救われ、永遠に生きる者となるのを望んでいるからです。主が私達を含め全ての人を救うのも滅ぼすのも御心のままに行える方と聖書を通して私達は知らされています。その基準は、その人が主イエスを信じるかどうか、その一点に掛かっています。パウロは言います、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と。私達が今年もこの地で生きるのは、神の憐れみであり、目的があるからです。主が私達の家族を、この地域の人々を愛しているからです。ではその為に私達は何をすればよいのでしょう。

 パウロは「あなたがたのからだを、神に喜ばれる聖なる生きたささげ物として献げなさい。これこそ、あなたがたにふさわしい礼拝」と言います。私達の体を自分のものではなく、神のものとすること。私が私の主人ではなく、神が私の主人となる生き方をせよと彼は言います。自分の人生も全ての持ち物も主のものとする生き方なのです。マルコ10:17-22の人は、主に「持っている物を全て売り払い、貧しい人達に与えてから私に従え」と言われ、悲しみながら立ち去りました。主がこう言ったのは、彼にそして私達に、人としての正しい、最善の生き方を求めているからなのです。

 それはどんな生き方でしょう。神の御心は何か。何が善いことで、神に喜ばれ、完全であるかを見分けられるようになることです。その為には、心を新たにし、自分を変えて頂きましょう。私達が今年一年、この地で生きる為に為すべき第一は、私達自身に相応しい礼拝をすることだからです。

 私達が自分達に相応しい礼拝をする為には、この世と調子を合わせるな、神の御心を知れと彼は言います。地域の人や私達の家族が福音を聞いて受け入れ、救われる為には、世の人々生き方に調子を合わせていてはだめなのです。人々が教会の人は違うなと感じられるような、私達の救われた喜び、神のものとして生きる喜びが伝わっていかなければならないからです。人々がこの世と教会の人間関係の違いに不思議さや驚きを感じなければ、教会に行きたいとも、行く必要も感じないのではないでしょうか。パウロは「自分に与えられた恵みによって、あなた方一人ひとり」に言います。彼が彼らに言えるのは自分が立派だからでも、正しい行いをしているからでもありません。こんな自分でも、神が恵みを与え、この群れが神に喜ばれる正しい群れとなるよう自分にも教え導けると知っているからです。

 私達の多くは、このままの自分で良いとは思ってはいないし、相手に対してもあのままで良いとも思う人もいないと思います。誰もが向上心や成長したいとの思いを持つからです。そこで大切なのは「思うべき限度を超えて思い上がらない」ことだと彼は言います。自分の判断が正しいと思わないと言っても、そう思わなければ人に忠告できません。でも彼がこう言うのは、自分を過信すると傲慢になり、相手を傷付けてしまうからです。そこで彼は、神が各自に分け与えた信仰の測りがあることに気付かせます。神は私達にも信仰の量りを分け与えています。それは物差しのようなものではなく、その目盛りは自分の判断や考え方で左右されるものです。だから自分の責任で慎み深く、考えよと言います。慎み深くは自分が節度有る思いで判断するという意味です。でも難しいです。だから、主イエスならどうするだろうかと考え、主という量りに従って判断すればよいのです。そこに謙遜と相手への深い思いやりが生じるからです。教会には一人一人が重んじられ、大切にされるこの世にない基準があります。一人一人は全く別な者に見えても、皆が一つの体を構成して、各自は互いに体の大切な器官なのです。相手や自分が他人に必要な者として神が組み入れていると互いに認め合うからです。そのような交わりの中で行われる礼拝こそが、私達に相応しい礼拝なのです。この素晴らしい交わりと礼拝を通して、互いが欠かせない存在と認め合う教会の良さを世の人に現していきましょう