メッセージ(大谷孝志師)
この町の人の為に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年1月13日
ローマ9:1-8 「この町の人の為に」 牧師 大谷 孝志

 ここにはパウロのユダヤ人に対する深く、絶え間ない悲しみと痛みが記されています。彼らは自分なりに正しい生活をしているので、主イエスを信じなくても神に喜ばれる者となれると信じていました。だからパウロを迫害しました。しかし彼はその彼らを愛し続けています。彼らが今のままでは救われないと彼は知るから、彼らがそれを知らないから、彼は激しい悲しみと痛みを感じているのです。

 私達の周囲にも、教会に来ようとしない家族、友人達が大勢います。その人々はユダヤ人と違ってユダヤ教の神を信じてはいません。しかし、彼らは他の宗教や自分の力、この世の知恵に頼っています。と言うよりそれらに縛られています。

 パウロは、神の子とされること、栄光、契約、律法の授与、礼拝、約束もユダヤ人達のものと言います。それだけではありません。主イエス・キリストも彼らから出たし、キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神と言います。パウロがユダヤ人にこのように言うように、私達も、自分の周囲の人々に対して同じ事が言えると知ることが必要です。なぜでしょうか。それは、主イエスがユダヤ人に約束されていた全てのものを、全ての人に与える為に、二千年前に世に来て、十字架にかかって死に、復活したからです。そして今も、この世の全ての人の為に開かれている新しい神の民となる道を見い出し、一人でも多くの人がその道を歩み、救いの門から入るようにと主は働き掛け続けているのです。そして、私達はその道を見出し、主イエスを信じ、その信仰によって救われているのです。

 主が、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、神のご計画に従って歩み続けたのはなぜでしょうか。なぜ、パウロはユダヤ人の為に激しい悲しみと痛みを感じ、彼らの為なら、自分自身がキリストから引き離されて、呪われた者となってもよいとさえ思っていたのでしょうか。それは彼が、神に見捨てられ、滅ぼされる者の末路の恐ろしさを知っているからです。そこから、すさまじいばかりの熱情が溢れ出てきています。それ程までに主が愛し、パウロが愛した世の人々を私達は愛しているかと聖書は私達に問い掛けています。私達は主イエスを礼拝する為に集まり、主の恵みを頂き、祝福に与っています。しかし、その主が同時に裁き主であることをどれだけ自覚しているでしょうか。主はご自分を信じない者、礼拝しない者を滅びに落とす方であると、どれ程自覚しているでしょうか。

 私達は愛と憐れみに満ちた主を喜んで見上げます。しかし、その主が黙示録に記されているように、口から鋭い諸刃の剣が出、死とよみの鍵を持っている方であるのを忘れてはならないと思います。主イエスを信じない者の滅びが恐ろしく確かだから、主は十字架にかかって全ての人の罪を贖って下さったのです。主イエスを信じるなら、その人とその家族が救われるとの喜びの知らせ、福音が世界の果てにまで宣べ伝えられているのに、今も多くの人々は滅びへの道を歩み続けています。パウロはその人々を見て我慢できませんでした。だから、私自身が滅びても、その人々が救われるなら、自分が神から見捨てられても構わないと言うのです。私達もこの町の人々の為に、自分の家族や友人、知人の救いの為に、パウロのように深い悲しみと絶え間ない痛みを感じましょう。それと同時に、自分自身が滅びから救い出されたこの大きな喜びを心から感じましょう。私達を、そしてまだ主を信じていない人々を愛し続けている主の恵みと忍耐を深く感謝し、主の十字架の痛みと苦しみを感じつつ、この町の人々の為に生きていきましょう。