メッセージ(大谷孝志師)

不信仰を認める信仰
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2019年1月20日
マルコ9:14-29 「不信仰を認める信仰」  大谷孝志牧師

 主イエスと三人の弟子が、主の山上での変貌の後、麓にいた他の弟子達の所に戻りました。そこでは、群衆が弟子達を囲んで、律法学者達が彼らと論じ合っていました。群衆は皆、主を見つけると非常に驚き、駆け寄ってきて挨拶したとあります。彼らが論じ合っていたのは、麓に残っていた弟子達が悪霊に憑かれた子からその霊を追い出せなかったからです。群衆は、主が特別な存在だと知り、弟子達もまた特別な存在だと期待したのですが、彼らにはできなかったのです。聖書にはただ「言われた」とありますが、内容には主の怒りが感じられます。「あなたがた」とありますが、群衆ではなく、弟子達のことです。主は、自立できずにいる弟子達の今の状態に我慢できないと叱りつけています。主は時として感情を爆発させます。

 私はここから幾つかのことを考えさせられました。私達は、世の人々にどれだけ期待されているだろうか。殆どが日常の挨拶程度の付き合いしかないのが現実ではないかと。主が私達そのようなを見て、嘆いてはいないでしょうか。私は、自分が主の力強い働きを取り継ぐ者となれないと最初から諦めていないか反省させられました。それは、主が全知全能であると信じていながら、主にできることとできないことを自分の方で決めていることになるからです。私は、自分が不信仰だと素直に認めなければならないと気付いたのです。弟子達はどうかと言うと、彼らはこの子の父親の必死な思いを受け止め、霊が追い出されるよう必死に努力したと思います。なぜ出来なかったのでしょう。聖書は彼らが自分の力に頼ったからだとその行間に示しています。

 ここに私達人間の弱さを見ました。私達も弱い人間です。その弱さを素直に認め、全知全能の主に頼ればよいのです。でも、それを認められないのです。人は弱くても、何も出来なくても、神は強く、不可能はないのに、です。

 主イエスは活動の初めに、神の国の福音を宣べ伝え、自分が世に来た目的を明らかにしました。そして全ての人に福音を知らせる為に弟子達を選び、共に居させ、神の国がどんな所かを知らせる為に彼らを遣わして宣教をさせ、悪霊を追い出す権威を持たせた。遣わされた彼らはめざましい働きをしました。しかし主が不在のこの時、彼らは託された務めを果たせなかったのです。

 主イエスを信じる者は、主に救われ、神の国に生きる者とされています。しかし、この弟子達のように、主が共にいないことを理由に自分の力に頼ってしまうことはありませんか。主は十字架の主ですから私達を叱りつけることはないでしょうが、嘆かれていると思いませんか。弟子達が全ての人に福音を伝える為に主の弟子になったように、私達も自分の為だけでなく、他の人の救いの為に救われ、今生きていることを常に覚え、主が常に共にいること、主に不可能はないことを覚えつつ、主と共に生きる者となりましょう。

 さてこの父親は、悪霊がてんかんの症状も息子に引き起こすので、子の命に危険を感じ、悪霊を追い出してと弟子達に頼みました。でもだめでした。その絶望的思いだけでなく、万策尽きたとの思いが21,22節の父の言葉に表れています。彼は主が子を癒す力を持つと信じるから、主に頼みに来て、主がいないから彼らに頼んだのです。しかし彼らが出来なかったので、主に対する信頼が揺ぎ、失望したのです。だから彼は主に出会っても懇願せず、弟子達への不満を口にしました。私達も世の人々が私達を見て、主について判断していると気付けと教えられます。私達は主の光を反射する鏡です。でも、鏡の私達が曇っていたら、人々が主について知るのが難しいと知りましょう。

 ですから父は、息子の状況を述べた後「しかし、おできになるなら、私達を憐れんで助けて下さい」と言いました。私達の主への姿勢にも同じ所はないか反省させられます。彼は主の偉大さを信じてはいます。しかしこの時、主を自分の世界に引き込んでいます。それに気付かないから「できるなら」と言ってしまいました。主はその彼をそのまま受け入れます。その彼を逆に自分が支配する世界に引き込むのです。「信じる者にはどんなことでも出来る」という言葉がそうです。この世の常識では全く理解できなし、受け止められない言葉です。主は自分が全知全能の主として支配するその世界に彼を招き入れたのです。そうです。主は私達もこの世界に招いているのです。

 父親はその言葉に、御心を感じ取ります。そしてすぐに「信じます。不信仰な私をお助け下さい」と叫びました。私達でなく「私」をと叫びました。それは、息子が助けを必要としていることで心が一杯だったが、彼が主に助けられる為には、私が主の世界に飛び込むことが必要だと気付いたからです。その為には、父は自分の不信仰を認め、主への姿勢が正しくなければと気付いたのです。信仰者となった父の言葉を聞き、その思いを受け止めた主は、悪霊に出て行けと命じ、悪霊はその子から出て行き、その子は正常な状態を取り戻しました。この世の常識を超えた驚くべき奇跡が起きたのです。

 私達も他の人の為に主の奇跡を求める時があります。でも「信じる者には何でも出来る」との主のみ言葉を心から信じて求めているでしょうか。「信仰は驚きから生まれる」とある先生が言いました。聖書は私達に驚くような奇跡を体験できると教えています。聖書が教える神の国とは、主が全知全能の神として支配する世界です。その世界に招き入れられています。イエス様はマルコ10:27で「神にはどんなことでも出来る」と言っています。このみ言葉が真理だと信じられますか。信じられなければ、この父のように、自分の不信仰を認めましょう。自分こそが主の助けが必要と気付こう。主のみ前にひれ伏し、この父親のように「信じます。不信仰な私をお助け下さい」と主に願いましょう。祈りは全知全能の神に祈ることです。御前にいる重さを意識しつつ、求める事が実現すると信じて主に祈りましょう。その時、自分自身にリバイバルが起き、奇跡が起きます。私達も神の栄光を見られます。