メッセージ(大谷孝志師)
神からの霊を受けた私達
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年1月20日
1コリント2:1-12 「神からの霊を受けた私達」 牧師 大谷 孝志

 全ての生物の中で人間ほど素晴らしい存在はないと私は思います。他の生物もある程度の知恵や力、先を読む力を持っていますが、人間のように知恵や力、洞察力は他のどの生物も持っていません。それは人間のみが唯一神のかたちに造られ、鼻にいのちの息を吹き込まれたからです。最初の人は神と直に会い、対話が出来ました。しかし今は、私達は神に祈ることは出来ても、対話は出来ません。それは、人が罪を犯し、神が自分と共に生きる為に置かれたエデンの園を追放されたからです。しかし私達は今、この世に生き、神に祈り、礼拝できます。霊的交わりを神と持っています。旧約聖書の時から、神は人と絶えず関わっています。人が生まれながらに霊を持っているからですが、不完全な霊だったのです。神はこの霊を自分の元に返し、人が神との正しい関係が持てるよう完全な霊を与える為に働きかけ続けたのが旧約の歴史です。しかし人は自分達の力ではその御心に答えられませんでした。人は不完全な霊に支配され、この世と神とどっちつかずの状態にあったからです。ですから主イエスが世に来たのです。主は神の霊に満ち、世の霊に支配しされていた人々に神の福音を宣べ伝えました。しかし人を縛り付けている世の霊の力が強いので、人々は福音を受け入れられず、主イエスを十字架につけて殺してしまいました。でも、神はイエスを復活させ、全ての人の救い主としたのです。黙示録に神の姿をヨハネが見たとありますが、具体的姿は記されていません。でもイエスの姿は記され、私達はイエスの姿を思い描けます。弱い私達がこの世で強く生きる為に、人として世に来て、今もみ力をもって全てを支配する救い主イエスとの霊的交わりが必要だからです。そのイエスに頼る時、私達は平安を与えられます。自分を見つめ、主を心に思うことが出来ます。

 でも私達は主イエスを信じ、そのように依り頼み、安心していても、世の人々はこの真の平安を知りません。私達は神の霊を注がれていても、主イエスを信じていない世の人々には注がれていないからです。私達は主の十字架の血によって清められ、 神の恵みを受け取れます。そして注がれた神の霊は私達の内に住み、私達を神の宮とします。信徒もそうでない人もどこから見ても同じ人間ですが、神の恵みを頂いて生きているかどうかで全く違います。イエスが自分と共にいる、助けてくれる、必要な時に必要なものを与えると信じるのと信じないのとでは、人生が大きく違ってくるからです。人は自分の心に浮かぶもの、自分が経験した事、直面した事を色々と判断します。しかし、それが真実かどうかは自分には分かりません。推測の域を出ないからです。主イエスを信じるとどうして経験し、直面する事を安心して受け止められるのでしょう。神からの霊を受けているからです。主を信じても普通の人間ですが、私達の内に住む御霊によって、神が私達に恵みとして与えたものを知ることが出来るのです。神が自分を愛し、全てのものは神が恵みとして与えたものと受け止められ、自分の判断ではなく、神の判断に任せられるからです。自分にどのように思えようとも、神の恵みなのだ、神が良い事として与え、良い方向に導いていると信じられるのです。将来と希望を与えられる(エレミヤ29:11)から安心して居られるのです。神からの霊を受け、御霊が内に住むことで、何ものにも換えられない喜びを経験できます。自分の知恵に頼らずに、御霊の働きで自分の心に起きた思いを大切にしましょう。神に全てを任せ、御霊が教える知恵によって物事を判断すると安心して日々を過ごせます。