メッセージ(大谷孝志師)

真の知恵とは何か
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2019年1月27日
ヨブ15:1-16 「真の知恵とは何か」  大谷孝志牧師

 月に一度ヨブ記を学んでいます。今月はヨブの友人エリファズとヨブとの対話を通して真の知恵とは何かを一緒に学びましょう。ヨブは激しい災いを神から受けました。しかし、いくら考えても彼にはその理由が分かりません。ですから神に訴え、友人達にも自分の気持ちを分かってほしいと語り掛けてきたのです。しかし彼らに全く理解されず、彼は孤独の中にいます。なぜかと言えば、彼が神からの答えを与えられないのは、彼が間違っているからと彼らが考えたからです。そして彼を非難し、自分の非を認めよと迫ります。

 人間関係の中で自分や他人が原因で苦況に立たされた時は無かったでしょうか。そんな時、神に助けを求めます。でも、神がなかなか答えてくれないと、不安と恐れに突き落とされてしまいます。その時、自分の苦悩を理解し、共に苦しむ人がいると本当に嬉しいものです。しかし、自分の欠点や過ちを鋭く指摘され、だからあなたは苦しんでいると言われたら本当に辛いです。その人は自分は正しい事を言っているつもりです。しかし、自力で相手の心の内を知ることは私達人間には不可能です。ですから相手の表情や言動という外に表されたもので判断せざるを得ません。心の内実を知り得ないのですから、そこに様々な問題が生じてしまいます。もし、エリファズがヨブの内面を知り得ないとの前提で、謙虚な思いで、共に神の前に立ち、神に助けられてヨブの言葉の内実を知ろうとしたら、全く違った展開になったでしょう。

 エリファズの言葉を読むと、彼はヨブが知恵ある者、敬虔な思いで、神に祈り、神の祝福を受けてきたことを暗に認めていることが分かります。しかし、その彼と目の前の彼とのギャップへの驚きが彼の言葉に現れています。しかし今の彼にとっては、目の前のヨブが真のヨブと考えるしかありません。人は、様々な時に様々な姿を見せます。その変化に驚きながらも理由を考えます。でもただ推測するしかありません。実はヨブ記は、この人間の弱さを残酷とも言える形で明らかにしています。友人の言葉は辛辣です。彼がそんな言い方をするのは、自分が真実を語っていると信じるからに他なりません。しかし私達は彼の過ちと同時に、私達自身の内にある問題を教えられます。ここまでヨブを罵倒し、卑下し、冒涜すらしている彼は、自分が過ちを犯していると気づきません。彼はヨブがみ前で祈るのを疎かにしていると断罪します。しかし、人を断罪するのは神にのみ出来ることです。彼を含め友人達は、自分達が神の代弁者であるかのようにヨブに語り掛けています。そのことに恐れを感じないどころか、逆に自分達にはその資格あると思い込んでいます。私達も相手を裁く時、自分を神の代弁者にしていないか吟味しましょう。人は人を裁けないと知りましょう。裁きたくなることから自分を解放しましょう。それが相手と共に神の国に生きる為の最善の方法だからです。

 エリファズがヨブの言葉に激しく反発する所に戻ります。彼が言う「最初の人間」とはエゼキエル28:11-15にも出てくる「人」で、全きものの典型、神の知恵に満ちた人のことです。彼はヨブが自分をそのような者と思い込んでいると考えているからです。だから4-6節で彼はヨブの罪を断定します。ヨブ記は、友人達が断定している事柄は、神の領域に属する事で、これが御心だと証明できないのに、それをヨブに押しつける間違いを犯している、と私達に教えています。とは言え、彼らは決して傲慢ではありません、謙虚な信仰の持ち主なのです。エリファズもヨブを憎んではいません。彼に神に立ち帰ってほしいと願って、懸命に忠告しようとしているのです。でもその思いが、ヨブの心を傷つける攻撃になっています。私達も同じ間違いを犯さないよう注意しなければならないと、ヨブ記の学びによって教えられます。

 彼は自分は正しい事、しなければならない事をしていると思っています。私達も相手の事が心配で忠告や警告をすることがあります。その時、本当に相手のことを思って心配しているのか、目線は上からか下からかを吟味する必要があるのではないでしょうか。彼は徹底的に上から目線でヨブに迫っています。私達も相手に注意すべき事があると思うと、つい上から目線で相手を見てしまいがちです。相手のその点を直さなければ、いつまで経ってもその人の状況は改善されず、相手の為にならないと思うからです。その決めつけが、実は相手を傷つけてしまう時があるのです。それでは折角の思いが相手の為にならず、自分を満足させるだけの結果になってしまうからです。エリファズの言葉がヨブへの辛辣な非難になっているのはその為と言えます。

 とは言え、私はこの箇所から二つの事を学ばされました。一つは彼の良い面です。彼が、真剣に友人ヨブに向かい、友の為になる事に全力を注ごうとしていることです。彼がしている事は的を射ているとは言えません。信仰的と思えても、それが空回りしヨブの心に届きません。でもそこまで真剣に相手を思うことで、ヨブとの対話が続き、問題は何かが深まっていくからです。

 もう一つは、自分が友から離れ、向き合って見ていないかと反省させられたのです。彼は自分はヨブの友と思っていても、ヨブに寄り添っていません。彼に向き合っているだけです。彼の側に寄り添わず、彼の問題を自分の問題にしていないのです。彼はヨブの状況についての評論家、裁判官であっても、彼の隣人になっていないのです。教会の交わりに必要なのは、評論家も裁判官でもありません。霊によって結ばれ、愛し合う兄弟姉妹なのです。主イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」と教えています。主のように、隣人となり、その人の為なら自分の命を捨てる覚悟で、寄り添ってくれる友が必要なのです。

 主は、十字架に掛かって死んで復活し、私達の友、寄り添って生きる友となって下さり、弱く、時に傷つけ合ってしまう私達を愛を持って優しく包み込んでいます。主に感謝しましょう。主は私達が互いに隣人になり、主がこの私達を愛したように、互いに愛し合う者同士となるよう願っています。それにより、この教会が麗しい神の国となり、世の光、地の塩となるからです。