メッセージ(大谷孝志師)
私たちを捜す主の愛
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年1月27日
ルカ15:1-7 「私たちを捜す主の愛」 牧師 大谷 孝志

 取税人達や罪人達が話を聞こうとしてイエスの近くにやって来ました。すると、パリサイ人達、律法学者達が「この人は罪人達を受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言ったのです。主はその彼らにこの譬え話をしました。ここに「羊飼い」という言葉が無いように「その人」は羊の所有者で、ヨハネ10章の良い羊飼いと同じように、主イエスを意味しています。そしてこの譬えは、九十九匹と一匹の対比による教えではありません。羊飼いであるイエスにとって、一匹一匹の羊、つまり私達一人一人がいかに大切であるかを教える譬え話なのです。

 パリサイ人達が、主に文句を言ったのは、彼らにとって取税人や罪人は自分達と同じ仲間では無かったからです。彼らは神の祝福の外にいると決めつけていました。しかし主イエスにとって、彼らはヨハネ10章で言う「囲いに属さない羊」、主の導きを必要とする羊であり、主の声を聞き分けられ、囲いの中にいる羊と一つの群れになれる羊達なのです。彼らは主を必要とするから、主の元に集まって来たし、主も彼らを迎えて一緒に食事をしているのです。

 主は、99匹を野に残して、見失った1匹を探し回るこの良い羊飼いに自分を譬えています。ルカでは「野」ですが、マタイ18章では「山」です。99匹の羊をそこに残したのは野や山が安全な場所だからではありません。いなくなった1匹が危険な状態にいる事が問題なのです。パリサイ人達は自分達は神の民として教師達から聖書を学び、神の民を実感している人達です。しかし主は、ご自分に文句を言ってきた人々に、あなた方は野に残された羊なのだと言い、彼らの信仰は不十分だとこの譬えで教えているのです。彼らも神から見れば、いなくなった羊なのです。私達が教会の群れの中に生き、神に恵みと平安を与えられています。しかし、何故私は神の祝福を受けて教会の一員として生きていられるのかを知らなければ、私達もいなくなった一匹の羊なのだと、主はこの譬え話で教えているのです。

 確かに私達はかつて、飼い主に見つけてもらわなければ、滅びる羊でした。勿論そんな事は知らず、のんびりとしたい事をして滅びの道を歩んでいたのです。主はその私達を見つけるまで探し回り、見つけて教会に抱きかかえて来てくれました。そして今、教会という囲いの中に入れられ、良き羊飼いである主イエスに導かれ、養われて生きています。でも、この取税人達は主が捜して見つけ出し、連れて来たのではありません。彼らは主の話を聞こうとして、自分達から主の近くにやって来ました。主は何故このいなくなった羊の譬え話をパリサイ人達にしたのでしょうか。取税人や罪人達を切り捨てている彼らこそが、いなくなった羊、主が捜している羊だからです。罪人達は、パリサイ人達が言うように、そのままでは救われず、神の民となれません。だから彼らは主のもとに来て、主から話を聞こうとしているのです。パリサイ人達は自分達は正しいと思うから、罪人達を切り捨て、彼らを受け入れた主に文句を言いました。罪人達からも主からもパリサイ人達は離れているのです。主が十字架に掛かって死に全ての人の罪を贖いました。ですから、彼らも自分達が主の救いを必要とする罪人であることを認め、悔い改めて主イエスを信じるなら、神は喜んで彼らを迎え入れ、神の民とします。私達も自分が悔い改めを必要としないと思っている限り真の神の民となれません。その私達を今も主は探し続けていると知りましょう。主は素直に自分の罪を認め、救われる者となるよう手を差し伸べています。私達は主に捜されているのです。