メッセージ(大谷孝志師)
共に主のみ前にいる私達
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年2月10日
使徒10:9-16 「共に主のみ前にいる私達」 牧師 大谷 孝志

 主イエスは、全ての人の為に立てた計画により、ペテロに、神が清めたものは全て清いと認めるように働き掛けたのです。この背景には、ユダヤ人が異教徒を汚れた人々として排除していたことがあります。人には十人十色というように、皆違いがあります。その違いより様々なグループが形成されます。しかしそこに排除や差別が生じ易いのが、人間の世界なのです。この世では、その排除や差別からあらゆる罪が生じてきます。人を悲しみや苦しみに陥れる事件が発生します。だからこそ、神はペテロに今日の箇所のように働き掛けたのです。この働きかけこそが主イエスが十字架に掛かって死んだ目的でもあります。全ての人が神の国に生きる為です。見えない神の国が、この地上に教会として見える姿で存在する為です。主イエスは全ての人が主イエスを信じる信仰によって救われ、神の国の民となる為に、十字架に掛かって死に、復活し、私達をこの教会に招いたのです。

 神の国は素晴らしい国です。主が全てのものの支配者として全てを統治しているからです。神の国では、お互いに主が見るように相手を見られます。主は人を偏り見ないからです。神の国では、人は誰でもどんな人でも主に愛されています。ですからエデンの園でのアダムとエバのように、安心して相手を愛せるのです。受け入れられるのです。しかし、この世は悪の力に支配され、人を信じて裏切られる事件が多発しているのが現実です。誤解や中傷に苦しめられる時もあります。

 何故そうなってしまったのでしょうか。アダムとエバが罪を犯し、エデンの園を追放され、人は神との正しい関係を失ったからです。同時に人と人との関係も壊れたからです。表面上は相手を思っているように見せていても、どろどろとした罪が人の心の奥に潜み、自分の為になる事を第一にさせてしまうのです。だからこそ、神に喜ばれる事を第一にしようとする教会がこの世には必要なのです。

 この世の現実が、神が人を造った目的から大きく外れていたから、神と人が、人と人が正しく愛に満ちた関係を回復する為に主イエスが十字架に掛かって死に、全ての人の罪を取り除き、主イエスを信じる信仰によって救う道を開いたのです。「この世のあらゆる人は、神が造り、愛し支えている、大切な人です。どんな人も排除したり、差別したりする必要はない」と、神はこの出来事によって教えます。

ヤッファという町にいたペテロがある家の屋上で祈っていた時、彼は夢心地になりました。すると天が開け、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りてきました。その中には、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥がいました。その中には清い動物だけでなく、彼が清くない、汚れていると思う動物がいました。神は「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」と彼に命じました。当然彼は「主よ、そんなことはできません」と断りますが、神は「神が清めたものを清くないと言ってはならない」と言います。これが三度あった後、その入れ物は天に引き上げられました。聖書はここで、私達の周囲にいるあらゆる人は、神が清めた人だと教えています。私達が安心して共にいられ、受け入れられる人なのです。主はそのあらゆる人の為に、十字架に掛かって死に、復活し、自分と共に生きるよう招いているからです。私達が生きている所が神の国、主が支配する世界、教会です。私達にとって、教会にいる人々は安心して共にいられ、受け入れられる人なのです。共に神のみ前にいる人だからです。そうすると世の人々にも同じように接することが出来ます。あらゆる人は主のものだからです。