メッセージ(大谷孝志師)

弱い人を大切にする主
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2019年2月17日
マルコ9:33-42 「弱い人を大切にする主」  大谷孝志牧師

 今日の箇所で、イエスの弟子達が自分達の中で誰が一番偉いか論じ合っていました。相手に自分がどう評価されているかが気になったのだと思います。主はその彼らを見守っていたようです。主は私達も温かく見守っておられます。そういう方なのです。しかしそれが解決しなければならない問題の場合、解決する方向に導きます。主は家に入り、彼らが落ち着いてから、「来る途中、何を論じ合っていたのか」と尋ねました。彼らはそう聞かれて黙ったままでした。彼らは、自分達が全てを捨てて主に従ってきたつもりでした。でも、自分が、自分がという思いを捨て切れていないと気付いたからだと思います。

 主は彼らに「先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい」と言います。主は先頭に立ちたいとの思いを否定していません。グループのリーダーになるには資質も必要ですが、責任を負うことにもなります。でも、その思いは向上心を生み、その後の成長につながっていきます。しかしそれだけでは他の人は付いてきません。その思いを他の人の為、群れの為に生かそうとすることを優先することが必要なのです。でも人はリーダーになると自分がしたい事、正しいと思う事を優先させたくなります。すると弱い人を無視したり、押しやってしまう事にもなりかねないので、弟子達が弱い人も強い人も同じ立場で共に成長するグループになれるよう教えます。

 主は一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、その子を腕に抱いて彼らに「このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」と言います。主は、当時のユダヤ人にとって民の一員ではなかった子供を民の一員と認めなさいと命じたのです。彼らにすれば驚くべきことでした。だから主は「わたしの名の故に」と言います。彼らは主に従っているので、主を受け入れていると思っています。しかし子供を自分達と同じ資格を持つ者として受け入れなければ、主を受け入れたことにならないと言われたのです。主が子供を受け入れよと命じたのには更に深い意味があります。誰が一番偉いかと論じ合うのは、自分を人より一段上に置こうとするからです。それでは友として受け入れていないことになります。私の名の故にと言ったのは、自分と相手の間に主を置く為です。言葉を替えれば、相手を主と思って受け入れることなのです。主の弟子であるとは、教会の一員であるとは、そのように生きることだと主は教えているのです。

 何故主がそう教えたのかというと、私達は一人で生きているのではないからです。家族、友人、職場や学校、地域の人、教会の兄弟姉妹という何らかのグループの中に生きているからです。他者と共に生きていると、どうしても他者と自分を比較してしまいます。その時、競争心や向上心が悪い方に向かうことがよくあるのです。時として相手を排除したり、孤立させたりしてしまいます。愛が必要なのです。配慮や励まし、助け合いが必要なのです。教会はその実践の場です。主イエスを信じるとどんな生き方が出来るかを、世の人々に示す場所であり、人々に主がどんな方かを見て頂く場所なのです。

 その為には、自分を低くし、皆に仕える者になりなさいと主は言います。それは、どんなに考えても仕えたくないと思う人にも仕えることなのです。そのような人の群れが、地上にある神の国、教会なのです。どんな人にも仕え、どんな人でも人として大切にされる所、それが主の十字架の愛に生かされている人の群れである教会です。それを具体的に示す為に、彼らが最も受け入れに抵抗を感じる子供を抱き、この子どもを受け入れよと教えたのです。

 すると、ヨハネがイエスに言います。彼は、私達に付いて来ないのに、イエスの名によって悪霊を追い出している人を見て、やめさせました、と主に報告しました。主は彼に、今後そのような人がいても、やめさせてはいけないと言いました。主は、自分のグループに加わろうとしない人もまた、受け入れるよう教えたのです。その人はイエスの名を唱えて力ある業を行っていました。イエスの名は呪文ではありません。信仰なしに唱える者に神が奇跡を起こさせる筈はありません。想像ですが、主イエスを信じているが、事情があって、12弟子のように全てを捨てて主と共に行動できない人が、必要に迫られ、主の名によって奇跡を求めた時、神が奇跡を起こしたと思われます。

 同じ主を信じていても、自分の生活は大切だし、考え方、価値観も違います。自分とは信仰のあり方が違うと決め付けてはいけません。自分に反対しない人は共通点があると感じている人なのです。互いに、違いを探すのではなく、同じ所を探して受け入れることが大事と、主は弟子達に教えています。

 また世の人が主を信じていないからと言って、付き合いを拒否する必要もないと教えます。私達をキリスト者と知っても、私達の必要に応えて親切にするなら、神は信仰の有無を問題にせずに、その人に良い報いを与えます。広い意味で全ては神に造られた人、神のものなのです。神は全ての人を愛し、人の善意を無条件に受け入れます。しかしもし、私達が他のキリスト者を信仰の弱さによって排除するなら、神は私達を赦さず、滅ぼすと主は言います。

 この世は競争が付き物です。また、この世は弱肉強食の世界と言われます。ライバルを蹴落としてでも目的を達成し、達成した人を優秀な人、勝者と称えます。しかし、イエスはそうではありませんでした。癒し、助けが必要な人の傍に行き、その人に必要なものを与え、その人の人生を転換させ、希望を与えました。私達はそのイエスがいつも共にいると信じています。ですから私達は強さを求めるのでなく、弱さを認めればよいのです。弱い人の友となればよいのです。弱い人は自分の弱さをそのまま受け入れてくれる人が必要なのです。イエスのように自分の心に寄り添ってくれる人が必要なのです。主が弱い人を大切にし、出来ない人を責めずに、大切にしたように、出来るようになりたいと思う弱い人に寄り添いましょう。教会はどんな人でも人として大切にされる場所です。自分にはできないと思わずに、「神にはどんなことでもできる」「信じる者にはどんなことでもできる」と言う主がさせてくれると信じましょう。教会の大切な使命は主の愛の実践の場となることです。主が弱い私達を受け入れ、大切にしてくれました。その主の愛に応え、自分自身が主の愛を実践し、人が人として大切にされる教会を目指しましょう。