メッセージ(大谷孝志師)

死は復活の門
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2019年2月24日
Ⅰテサロニケ4:13-18 「死は復活の門」  大谷孝志牧師

 私達の教会では、2月の第四聖日に「昇天者記念礼拝」を捧げています。週報に記載してあるようにこの教会に連なる22名の方々を偲び、その方々を愛し、生涯を全うさせて下さった主を共に礼拝する時を持ちたいと思います。

 人はいつか必ず死にます。死は恐ろしいもの、死別することは寂しく、悲しいものと考える人が多いのは事実です。しかし、主イエスを信じる者は死を恐れません。永遠の命を与えられていると信じるからです。私もそう信じていますが、死んだことはないし、死後の世界を見たからでもありません。ただ、聖書や説教を通して教えられた事を真実と信じるからです。それによって、今生きていることを前向きに捉え、安心して生きていられるからです。

 13節の「眠っている人」は死んだ人のことです。パウロはテサロニケ教会の人々に「望みのない他の人々のように悲しまない為に、主にあって死んだ人達についての真実を知って欲しい」と言います。しかし何を知って欲しいのでしょう。彼らは1:6,7で「聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。その結果、あなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範になったのです」と彼に言われている信者達です。その彼らでも、 肉体の死は悲しい別離でしかなかったかのです。この事からも、死というものが持つ重さを改めて教えられます。

 15節と14,17節の「私たち」では意味が違います。15節はこの手紙を書いているパウロ達ですが、14,17節は彼らと読者を含む「私達」です。死後の問題について自分達と彼らを同じ立場に置き、彼らを突き放していません。彼はまず、死後の事を、イエスについての信仰を引き合いに出して教えます。私達もそうですが、主イエスが死んだが復活し、今共に生きていると信じています。しかし、それが主にあって死んだ知人の復活には結びつかないのです。主の復活とその人の復活を別ものと考えてしまうからです。信仰が頭の中に留まっていて、現実と結びつかないのです。では、主の復活と自分自身の復活についてはどうでしょうか。永遠の命を持つとは、死が終わりではなくなることです。とは言え、死後のことは人には分からないのが現実です。死ななければ分からないからです。でも、その分からない事を、不確実ではなく確実な事、真実と受け入れるのが信仰なのです。その教会の人達は模範的信者でした。その彼らでも、死者の復活について信じ切れていない部分があったのです。彼はその彼らを正しい信者へと成長させる為にこの手紙を書いています。でも自分の信仰的確信を彼らに押しつけてはいません。死後の事についての信仰の根拠を「生きていて、力がある主の言葉」に置いています。

 死が必ず訪れるように、主の再臨、世の終わりの日も必ず到来します。主の来臨は私達が世に生きている間に来るかもしれません。いつ死ぬか分からないように、主の来臨と世の終わりもいつ来るか分かりません。では今はどうかというと、主にあって死んだ人は、既に主の栄光を見ていると聖書は教えます。死は、無や滅びの入り口ではなく「栄光の門」「復活の門」だからです。

 主にあって死んだ人の体は霊の体に変えられ、永遠に生きる者とされています。ですから、主を信じる人は生きていても幸い、死んでも幸いなのです。

 新約聖書の死後の世界についての教えは、黙示録を除くと「ある金持ちと貧しい人ラザロとアブラハム」の話があるだけです。そこは黙示録にある神の栄光に輝く場所とは違い、むしろ芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」によく似ています。でも、内容は全く違います。「よみ」に落とされた金持ちとアブラハム、ラザロがいた所の間には大きな淵があり、アブラハムもラザロも金持ちのいる所に越えて行けません。ですから金持ちは、ラザロを家族に送り、家族がこの苦しい所に来ないよう警告させてとアブラハムに頼みます。しかし、アブラハムは彼らが聖書に耳を傾けなければ、誰かが死者の中から生き返って警告しても、彼らは聞き入れないから無駄だと拒否します。「蜘蛛の糸」では、釈迦の方が蜘蛛を助けたカンダタに自力で登れるなら極楽浄土に上がれるよう蜘蛛の糸を垂らします。実はその蜘蛛の糸は何千人が一緒に上っても切れないのですが、彼は上ってくる大勢の人々を見て、切れたら大変と来るなと喚き立てます。その途端にその糸が彼の上から切れ、彼も人々も元いた地獄に堕ちたという話です。仏教説話と聖書の話なので違うのは当然ですが、両方共、死後の事より今をどう生きるかの教えです。蜘蛛の糸をみ言葉、福音に置き換えると聖書の教えにも通じます。主は十字架の死により、福音という細い糸を全ての人に垂らしています。仏話はカンダタの蜘蛛を助けたという善行の故ですが、聖書は主が犠牲を払うことによってできた糸です。私達がその福音の糸が自分を永遠の命に導くと信じて上っているのを見るなら、人々もこの糸を上れば幸せになれ、希望と安心が得られると気付き、上り始めるのではないでしょうか。細い糸、だがこの糸こそ、命の門に至る細い道です。私達がみ言葉を心に蓄え、主を信じて上り続けることが大切です。

 私達は、今それぞれに天に召された人のことを思い起こしています。様々な思い出がすぐに浮かぶ方もいれば、遠い記憶になっている方もいると思います。この世での日々の生活に追われ、忘れていた方もいると思います。だから、この日が大切です。年に一度でもその方々との繋がりを思い起こせるからです。しかしこの繋がりは私達から見ると切れていたように見えても、主にあってしっかり繋がっています。聖書は世の終わりに、この教会に連なって死んだ人々と生き残っている私達が、神の力と栄光に包まれて一緒に空中で主に会うと約束しているからです。ですから、主に在って生き、死ぬなら誰もが幸いなのです。これを信じましょう。死んだ人と生きている私達は今は会えません。寂しくて心が虚ろになる時もあります。でも、必ず会えると主は約束しています。主にあっては、死は永遠の別離ではないからです。確かに先の事は分からないと思うかもしれません。でも主イエスは十字架に掛かって死んだけれど、復活して今も生きていてここにいます。主は天に召された人の主でもあります。主を信じる人は永遠の命を与えられているからです。だから聖書のみ言葉をしっかり心に留め、安心しましょう。そうすれば、今の時を大切に、喜びをもって生きられます。それが一番大事なのです。