メッセージ(大谷孝志師)

主は求める人を救う
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2019年3月3日
ルカ19:1-10 「主は求める人を救う」  大谷孝志牧師

 今日は桃の節句ですが、リオではカーニバルが行われています。昔、牧師として赴任していた大阪の池田市では真夏にカーニバルが行われていました。カーニバルは、主の受難を共に味わう為に受難節の期間は肉を断ったので、その前日に肉を食べたことが始まりで、「謝肉祭」とも呼ばれます。だから、ドイツ語ではファスト(断食) ナハト(夜)で断食の前夜と呼ばれます。

 受難節は四旬節とも呼ばれ、その期間は復活祭前の40日間です。でも3/6に始まり4/20迄なので46日あります。それはその間の6聖日を主の復活を祝う喜びの日として除くからです。この受難節の間、主の十字架を心に刻みつつ、ルカ福音書を通して、主の十字架への歩みをご一緒に学びたいと思います。

 今日は、イエスが十字架の死が待つエルサレムに入る前のエリコでの有名な話です。そこにザアカイという取税人の頭で金持ちの男がいました。彼はイエスを見たいと思ったが背が低く、群衆に遮られて見られなかったのです。彼の行動を見ると、決して興味本位ではありません。イエスに会うことが自分に必要だと思っています。彼は背が低く、後ろからでは主を見られませんでした。だから前に出ようとしました。ても群衆に遮られてだめでした。イエスは有名人であり、誰もがイエスを見たかったのです。最初に彼が金持ちだと強調されているので、群衆が、金持ちである彼を妬み、邪魔をしたのかもしれません。彼は前の方に走って行きました。どうしても主に会いたかったのです。彼の熱い思いが、いちじく桑の木に登ったことに表れています。

 彼はそこで待ちました。信仰生活でまず大切なのは、求めることです。次に大切なのは待つことです。主は求めなければ与えない方ではありません。では何故「求めなさい。そうすれば与えられます」と言ったのでしょう。それは求める時、私達の心は主にしっかりと向いています。主に委ねています。その事が私達の信仰が成長し、確かなものになっていく為に必要だからです。

 彼が待っていると、イエスがその場所に来て、見上げて彼に、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」と言ったのです。主が彼の求めに応えてくれたのです。ここで大切なのは、主が彼の名を知っていたし、彼が主に会いたくて木に登って待っていたことも知っていたことです。更に、主は彼の家に泊まることにしていました。ザアカイが主に出会い、救われる為の全ての準備を主がしていたのです。

 主は彼を救う為にエリコに来たのです。この事は、神の全ての人を救う計画がどんなものかを私達に教えています。主イエスは世に来て、自分を低くして、人に仕え、自分の命を捨て十字架に掛かって死にました。そして復活し、全ての人に「私を信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と呼びかけ、手を差し伸べているのです。そしてザアカイがしたように、人が主を求めれば主の方から必要な時に会いに来てくれます。その人の名前を呼び、あなたの心の中に住むと言います。主イエスは全ての人を救う為に十字架に掛かって死に、復活して今も生きて働いているからです。

 ザアカイは急いで木から降りてきて、喜んでイエスを家に迎え入れました。ザアカイの家に入ったイエスを見て、人々は皆「あの人は罪人の家に入って客となった」と文句を言いました。主はザアカイを救う為に彼の家に入りました。しかし人にとって彼の救いは重大事ではなかったのです。主が律法に違反していることが問題だったのです。律法は人が神に喜ばれる道を示す為に神が与えたものです。しかし人は律法を守り切れなかったのです。だから、その一人であるザアカイを主は救おうとしているのです。主が律法が禁じている事をいたからこそ、彼が神に喜ばれる者に変えられました。人々がどう自分を非難しようと、彼の家に入ることは主には何の問題もなかったのです。

 ザアカイの思いはどうだったでしょうか。彼は自分の救いを求めてイエスを見ようとしたのではなかったし、見たいと思う思いに明確な目的があったのでもありません。しかし、彼の心に満たされない思いがあったのは確かです。イエスに何としても会いたいという思いはどこから生まれたのでしょう。彼がそう思ったのは、そう思いたくなるほどの主の噂を彼が聞いたからです。

 私達は世の人々の救いを願っています。そう思うなら主イエスについての情報をその人々に伝えることが大事だと思います。聞かなくてはイエスを求める気持ちが起きないからです。求めなければ、信じる機会はないからです。私達も人々が求めたくなる情報を伝えましょう。それは言葉に限りません。私は先輩達の笑顔に魅力を感じました。ある程度の距離を保ちながら、私の為に出来ることは無いかと探しているの感じました。そこに彼らの祈りがありました。私に求めるのでなく、私には分からないイエスのことを伝えようとしているのを感じられたのです。もしそれを感じなければ、私の心に主への求めは生まれなかったと思っています。ローマ10:14のみ言葉は真実です。

 さて、ザアカイは自分の所に来て語り掛け、彼は喜んで主を、家と言うより、自分の心に、自分の人生に迎え入れたのです。その時、驚くべき事が起きました。彼は安心や希望の根拠としていたものから解放されたのです。その財産が、実は自分の人生を貧しくしていたと悟ったのです。ですから財産を貧しいに人々に施し、力尽くで奪ったものを返すことにしました。彼は「私は財産の半分を貧しい人達に施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します」と主に申し出ました。驚くべき変化が生じたのです。

 彼はそれまで自分の力で生きようとしていました。そして満足できる生活をしていました。しかしそれだけでは心の空しさを埋められなかったのです。だからイエスが来ると聞いて、会いたいと思ったのです。そして主イエスを求め、主が彼と出会い、彼が主を受け入れたことで、彼の人生は新しい人生に変えられたのです。彼は一番大切な神との関係が切れていたのに気付きました。神に喜ばれることが第一と悟ったのです。その時、彼は他の人々との関係も切れていたのに気付きました。私達は人との関係の中で生きているので、これはとても重要なことです。主は彼が神との関係、人との関係が正しくなったと知り、「救いがこの家に来た」と言いました。私達の家にも救いが来るよう、主を求め、まず自分自身が主との新しい出会いを経験しましょう。