メッセージ(大谷孝志師)
信仰の喜びが溢れ出る者に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年3月3日
ピリピ3:5-9 「信仰の喜びが溢れ出る者に」 牧師 大谷 孝志

 パウロは素晴らしい伝道者でした。しかし伝道者になる以前は、イエスは主でも神でもなく、むしろ神を冒涜して、十字架に掛けられて殺され、神に抹殺された人物としか思っていませんでした。彼はイエスを主と信じる人々を捕らえ、獄に入れたり殺したりしました。その人々からイエスについて聞いていたでしょう。しかし、イエスが自分の罪を贖う為に十字架に掛かって死んだなどとは考えられませんでした。なぜなら、彼は自分がイエスの十字架の購いを必要とする罪人だとは思えなかったからです。彼は、自分がユダヤ人社会の中で素晴らしい血統の出身者であり、ユダヤ教徒の中でも熱心で非難されることのない者であることに、誇りを持っていたからです。勿論自分が完全な人間だとは思っていなかったと思いますが、善い行いをしていれば、神に喜ばれる者になれると信じ、自分はその為に律法を学び、努力してました。彼は自分の正しさに自信を持っていました。

 私達の周囲の人々もそうです。主イエスのことを聞いても、そんな者に頼らず、自分で注意し、自分の力で努力すればよいと思っています。でも、本当に幸せなのでしょうか。主イエスを信じていても、悩みや苦しみはあります。失望したり深い悲しみを味わうことはあります。しかしどんな状態に陥っても、主を信じていると、真の神が全てを知っていると分かり、希望を持てるし、安心できます。人々はイエスに頼らなくても大丈夫、必要なものは自分の努力で、手に入れればよいと思っています。でも、自分が必要だと思うもの、手に入れたいと思うものは本当に必要なもの、それがあれば安心なのでしょうか。そうではありません。

 パウロは、復活の主イエスに出会って、自分にはこれがあるから大丈夫と思っていたものの全てが色褪せて見えました。それらはユダヤ人にとって素晴らしいもの、将来を保証するものでした。しかしイエスに出会い、主の御心に触れた時、その豊かさ、偉大さ、確かさに圧倒されたのです。それまではとても考えられなかったことです。そして、自分がユダヤ人の中でも特別な存在であること、自分が神に喜ばれると思ってしてきた事が、自分と真の神との間を隔てていたことに気付いたのです。私達の周囲の人々も、無くてはならないもの、必要だと思うもの を大事にしているので、福音を伝えても素晴らしさが伝わらないのは当然です。

 でもパウロは主に出会って、それまで自分に得だったものが損と分かりました。そして彼は主に異邦人伝道に遣わされました。その伝道が如何に困難に満ちていたかはUコリント11章に書かれています。彼は将来のユダヤ社会の指導者になると思われていました。しかしその全てを主に仕えることで失いました。でも、彼にとってそれらは塵芥にしか見えませんでした。なぜなら、キリストを知ることの素晴らしさは、失ったものとは比較にならない程に、豊かで大きなものだったからです。彼の手紙を読むとその喜びが溢れ出るように伝わってきます。私達も主イエスと出会い、主を信じていることで大きな喜びを経験しています。その喜びが泉の水が湧き上がり周囲を潤しているように溢れ出ているでしょうか。信仰の初心に立ち返り、主を信じる喜びに震えた日のことを心に刻み直しましょう。主は私達に新しい人生を歩み出させています。私達も完全ではありません。だから彼が勧めるように、常に喜び、絶えず祈り、どんな事にも感謝しましょう。神は、私達に将来と希望を与える計画を既に立て、実行に移しています。心を一心に神に向け、全てを委ねて生き、信仰の喜びが心から溢れ出る者になりましょう。