メッセージ(大谷孝志師)

私たちは何を献げるか
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2019年3月10日
ルカ21:1-4 「私たちは何を献げるか」  大谷孝志牧師

 主イエスは一人の貧しいやもめの献金を通して、神に仕えるとはどう生きることかを教えています。その前の45節で、律法学者に用心するように教えた時、弟子達に言ったとあるので、この時も弟子達に教えたと考えられます。

 当時の神殿には多数の献金箱が置いてあったそうです。その一つの近くで、主は金持ち達が献金箱に献金を投げ入れるのを見ていました。その方法は、私達の献金や神社仏閣での賽銭の投げ入れるのとは違い、祭司に目的と額を口頭で伝えたのだそうです。ですから主も近くでそれを聞いて、その額を知ったと思われます。でも、彼女にとって投げ入れたレプタ銅貨二枚が生きる手立ての全てであると知ることができたのは、全てを知る主だからこそです。その主は生きて今もここにいます。そしてこの後、私達が献げる額も、その思いも知っていて下さいます。主は彼女が誰よりも多くを献げたと言います。彼女が献げたレプタ銅貨は最小銅貨です。それも二枚献げただけです。その彼女を、主が最高の褒め言葉で褒めたのです。この事から、人と主では物事の基準が違うことを教えられます。人はどうしても額が気になります。しかし、主は私達の心の内を知っているので、どんな額であろうと、それを自分なりに精一杯の思いで献げるなら、私達を褒めて下さっているのです。

 貧しいやもめは最小銅貨二枚しかないのに、それを献げられたのは何故でしょう。「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」「明日は明日の風が吹く」という諺がありますが、それとは明らかに違います。また、これっぽっちではどうしようもないと自棄になったのでもありません。彼女は全財産を神に献げたのです。そこに大切な意味あるのです。主は彼女の行為を用いて、人はお金やものによってではなく、神によらなければ生きられないことを私達に教えているのです。二枚のレプタ銅貨で何を買えたかを考えるのは、見当違いなのです。大切なのは、主が彼女は誰よりも多く献げ入れたと褒めたことです。

 カナの婚礼での奇跡がヨハネの福音書2章にあります。そこでは、給仕の者達はイエスに言われるままに大きな水瓶六つを水で満たしました。今のような水事情ではありません。非常な重労働です。汲みながら、これが何の役に立つのかと彼らは考えたと思います。勿論、水が葡萄酒に変わると信じていたからでもありません。唯、彼らはイエスに命じられたからそれを黙々としたのです。彼女も、これを献げたら、神が明日の食物を与えると信じて金を投げ入れたのでもなければ、こんな少しの金では何の役にも立たないと投げやりになったのでもありません。その時、彼女は全てを神に委ねたのです。打算や自棄になったのではなく、自分を神に献げたのです。だから主は、誰よりも多く献げたと褒めたのです。この事は、神にとってこの貧しいやもめが計り知れない重さを持つことを私達に教えています。小学生から高齢者まで、私達一人一人は神にとって計り知れない重さを持っているのです。ですから、私達が自分を自分のものにしないで、自分を神のものとして献げるなら、私達も神に褒められます。神は私達の信仰を喜び受け入れてくれます。

 私達は、一人一人が計り知れない重さを持っています。私達が信じ、礼拝している神は、私達が自分を神に献げる者、神の祝福無しには生きていけないと神に求める者になることを願っています。自分を自分のものだと考えていると、悪魔に隙を与えてしまいます。献金をする時、ただお金ではなく、自分を献げ、自分を神に献げ、神のものとして神に自由に使って下さいと献げてみて下さい。信仰が変わり、成長します。教会が成長します。確かに大きな決断が必要になります。神はその信仰を求めています。貧しいやもめは、打算や自己保身ではなく、全てを神に委ねて、持ち物全てを献げることによって自分を献げたのです。だから主は、彼女を最高の賛辞で褒めたのです。

 悪魔は人を神のものではなく、自分のものにしようと働き掛けて来ます。しかも私達が信仰的だと思ってしまうような方法で誘惑をしてきます。私達は自分達がしようと思う事が、主の御心に適う事か、逆に、悪魔を喜ばせる事になるかを、一度立ち止まって、慎重に吟味することが必要になります。

 この事を更に深める為に、20:20-26の律法学者と祭司長達が、神殿で民衆に福音を語り伝えていたイエスを罠に掛けようとした話について話します。彼らは民衆がイエスの教えに惹かれ、自分達から離れていくことに危機感を持ちました。信仰上の問題では太刀打ちできないので、義人を装った回し者を遣わし、主の言葉尻を捉えて、社会的、政治的支配権を持つローマの総督にイエスを引き渡し、十字架に掛けて殺そうとしたのです。彼らが自分達を信仰深い者に見せて、主を油断させようと懸命に努力したことが、必要以上に丁寧な言い方に現れています。悪魔は、彼らを用いて人々を主から引き離し、自分のものにしようとしたのです。悪魔は主を陥れる為に税金問題を取り上げさせます。ユダヤ人にとって土地は神が与えた聖なるもので、そこから得た収益も聖なるものでした。それを異教のローマ皇帝に税金として納めるのは神を冒涜する以外の何ものでもなかったのです。とは言えローマの支配下にあったので、皇帝への納税は彼らの義務でした。だから彼らの問いに答えて、イエスがカイザル(皇帝)に税金を納めるべきと言えば、神を冒涜したとして民衆をイエスから引き離せるし、納めるべきでないと言えば、民衆を扇動し、ローマに反抗させる反逆者として、総督に訴えられたからです。

 悪魔はどちらにしても人々を自分のものに出来ると考えたのです。しかし主は、皇帝の肖像が刻印されたローマに納める税金用のデナリ銀貨を提出させ、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せと答えました。実は、これは世では目上の者や指導者に、教会では神に従えという教えではありません。神は、皇帝を含め地上のあらゆる権威の上に立つ方であり、皇帝に返す金も含め、全ては神のものとして、神に返しなさいと教えたのです。世に生きていると、この世の秩序や行事を守るか、神に従うかの選択を迫られる時があります。パウロは「私達の国籍は天にある」と言います。大切なのは、私達は神の国に生きる者、神のものであり、自分を含め全ては神のものとすることです。何を献げたら良いのでしょうか。自分の人生を神に献げましょう。神はその信仰と決断を喜び、私達に喜びと希望を豊かに与えて下さいます。