メッセージ(大谷孝志師)

福音を伝える為に
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2019年3月17日
ルカ22:31-38 「福音を伝える為に」  大谷孝志牧師

 弟子達は、主から9章と18章で「人の子は」と言う表現ですが、主自身が十字架に掛かって死なねばならないと聞かされています。しかしそう聞かされても18:34には「弟子達には、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった」とあります。ですから主は、最後の晩餐の前に「苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました」と言いました。

 遙か昔、奴隷だったイスラエルの民を自由にするのを拒んだエジプト王の心を変える為に、神がエジプトに9度災いを下しましたが、王は拒絶し続けました。神は最後にエジプト中の長子を全て殺害する災いを下し、それにより、民はモーセに率いられてエジプトを脱出しました。神は民に羊を用意させ、それを過越の生贄として屠らせ、その血を鴨居と二本の門柱に塗らせました。神の使いはその家を過ぎ越し、災いを下さなかったのです。神は民にその事を心に刻む為に、毎年、その日を記念して過越の食事をするよう命じました。

 主は食事の席に着き、このパンは私の体で、飲む葡萄の実から出来た物は彼らの為に流す私の血だと言って食事をさせたました。主は十字架の死に隠された事実、十字架の死を必要とする弟子達の現実を教えたのです。しかし彼らはその席で、自分達の中で誰が一番偉いかと議論をし始めたのです。自分の事しか考えられない弟子達の現実があからさまに描き出されています。

 さて主はペテロに「シモン、シモン、見なさい」と言い、サタンが弟子達をふるいに掛けることを願い、神が聞き届けたと教えます。ヨブ記を想い起させます。神はヨブが正しい人と知っていましたが、ヨブの全てを奪いました。弟子達は、イエスという彼らにとり、主で王、この方無くしては生きていけない方を奪われます。神は、彼らが主の十字架の死に直面し、茫然自失することをサタンにさせたのです。そこには神の深い計画がありました。神は、なぜ人は正しく生きられるのかを明らかにする為に、ヨブに災いを下すことをサタンに許したように、主の弟子である彼らが真に神に頼っていく者となる為に、彼らに主を奪われる経験をさせることをサタンに許したのです。

 神はこれ迄、弟子達に、なぜイエスが十字架に掛けられ殺されなければならないかをイエス自身の口を通して教えたのですが、彼らは理解できませんでした。自分が罪人であると気付けない彼らの知恵では不可能だったのです。神は自分達が何者であるかに気付かせる為に、彼らがそれまで持っていた信仰を根底からぐらつかせたのです。自分達は主と共に生き、主を正しく信じていると思い込んでいました。しかし信仰者である自分を安心して見ている内は自分の本当の姿は見えないのです。自分の信仰がひっくり返され、この方がいるから自分は生きられると思っていた主を失い、哀れで惨めな自分の姿に気付きました。彼らは主が十字架に掛かった時、離れた所から見ていました。彼らはそこで自分達こそ救いが必要だと気付たのだと思いいます。自分は主の側にいられないと気付いたのでしょう。側にいられなかったのです。

 さて、主は自分には信仰が無かったと沈み込むであろうペテロに「あなたの信仰が無くならないように祈った」と言います。私達も試練に遭う時があります。見せかけの信仰に安心し、ぬるま湯に浸かっている信仰が清められ、燃えるよう熱い信仰に変えられる為なのです。主が私達の働きを必要としているからです。主は彼を立ち直らせました。立ち直りが必要な程完全に崩される経験が、これから福音を伝える彼と他の弟子達には必要だったのです。人がどう思い、どう感じようとも「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」との<伝道の書>のみ言葉は正しいと、改めて感じさせられました。

 その後主は、彼らをかつて、財布も袋も履き物も持たせずに遣わした時に、何か足りない物があったかと尋ねました。彼らを初めて伝道に遣わした時、主は、必要だと思っているものを捨てて行けと彼らに命じたのです。伝道する人は、必要なものは神が備え、与えると信じ、物にでなく、神に頼れば良いからです。主が遣わしたのだから、今ある物で十分なのです。満ち足りた思いで生きられるし、足りないものはありません。伝道する人はこの事を信じられるので幸いです。しかし主は「今は財布と袋のある者は持ちなさい」と言います。伝道する彼らが自分の物を使って主の為に働く時が来るからです。主の十字架によって、世と教会の戦いという新しい時が始まっています。その戦いの為にはお金や物が必要です。私達が献げてきた自分達の物を主のものとして世の人の為に用いる思いを改めて持ちなさいと主は教えています。

 更に主は「剣のない者は、上着を売って剣を買え」と言いました。生活の為の上着より剣が必要と言たのは、彼らが今後直面する苦難が非常に大きいからです。とは言え、武力闘争を覚悟せよと言ったのではありません。直面する苦難の大きさに負けず、挫けずに立ち向かう信仰を保ちなさいという教えです。悪の力に資金や財産を奪われても、主の力を信じ、主によって立ち向かえば良いので、その信仰を剣というものに例えて教えていると言えます。

 37節は、イザヤ53:12の預言通り、この後、主が犯罪人として処刑される十字架刑が実現するという預言です。しかしそれによって実現するのは十字架の死だけではないと「関わること」という言葉が表しています。主の十字架の死によって、神が人と和解し、御子を信じる者に永遠の命と平安が与えられるという神の計画が実現すると主は約束しているのです。これこそが彼らに真の希望を与える約束の言葉であり、私達が目にしている現実なのです。

 それを聞いた弟子達は二本の剣を主に差し出し、自分達に戦う覚悟があると示します。それに対し主は「それで十分」と答えたのです。ユダを除く、主を含めた12人に二本の剣だけでは少なすぎます。ですが、こんな物だけでは戦えないと皮肉ったのではありません。主は彼らが差し出した二本の剣に「主と共に死なねばならないなら一緒に死ぬ」との彼らの覚悟を見たのです。しかし主が捕らえられると彼らは主を見捨てて逃げ出しました。聖書は伝道する気があっても出来ない弱さが人にはあると教えます。だからこそ主の十字架と聖霊の満たしが必要なのです。それと共に、伝道しようとする気持ち、やり遂げようとする気力が大切です。主はその私達を助けてくれるからです。