メッセージ(大谷孝志師)
信仰者の生き方とは
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年3月17日
コロサイ3:12-17 「信仰者の生き方とは」 牧師 大谷 孝志

パウロは、読者に様々な「徳目」と呼ばれるものを身に着けるように命じます。 「深い慈愛の心」「親切」「謙遜」「柔和」「寛容」は、全てキリスト者が主に相応しい者として生きる為に必要なものです。彼は何故命じるのでしょう。そうすることが主の御旨であると知るからです。それが信仰者としての正しい生き方だからです。彼は福音を伝える器として、御旨を正しく教える務めを主に託されていました。霊である主は、彼に親しく語り、語るべき事、なすべき事を教えました。ですから、確信を持って命じることが出来たのです。更に彼は、五つの事を身に着けるように命じています。私達はここを読んで、とても出来ないと思う必要はありません。私達も「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」とされているからです。神の豊かな恵みを戴いているのです。私達にも出来ます。だから、パウロは命じるのです。それに何よりも、そうなる事を主が望んでいるからです。その事を信じましょう。次もそうです。「互いに忍耐し合い、誰か他の人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい」とパウロは言いますが、そうすればよいと分かっていても、私達にとって、その実行はとても難しいものがあります。ですから、パウロは「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」と言い、私達には主の模範があると知らせるのです。そう言われても難しいと思う気持ちは変わらないかもしれません。だからこそパウロは「主があなたがたを愛してくださったように」と主の模範があることを知らせます。

 これは大切なことです。何故かと言うと、私達が徳目を身に着け、忍び合い、赦し合うことによって、私達の教会への誘いが、世の人々にとって魅力的なものになり、教会に行ってみようかという気持ちを起こさせることがあるからです。その為に主が模範を見せていると彼は言います。神が私達を選び、聖なる者とし、愛しているのは、勿論、私達を幸いな者とする為ですが、世の人々に、このような幸いな生き方が自分達にも出来るのだという模範を示させる為でもあります。

 私達がそのような幸いな人生を生きていても、自分の心の中に闘いがあり、他人の無理解や誤解、中傷との闘いがあります。だからこそ、主が模範を示したのです。主イエスは十字架の上で、十字架に付けろと叫んだ人々、嘲り罵る人々の罪の赦しを願って、神に祈りました。三度主との関係を否定するペテロの為に、彼の信仰が無くならないように祈ったのです。マタイ5:44の「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とのご自身の教えを実践し、模範を示しました。私達が今教会に連なっているのは、真の神を礼拝しているのは、主が私達にそのような模範を示し下さったからなのです。ですからパウロは主の模範に倣い、同じようにしなさいと命じるのです。そうするなら、私達に更に素晴らしいことが起きます。十字架の主の前に立たされている自分を知り、十字架の死にまで従順だった主の模範に倣うよう促されるのです。主が私達を包み込んでいるからです。

 主は私達を共に平和に生きる為に教会に、礼拝に招いたのです。それは世の人々にこの福音を伝える場、実践し証の場として教会が立てられているからです。私達はキリストの平和に支配されていること、一つの体として成長していくことが求められています。私達をここに招き、祝福して下さる主に感謝し、その主を模範として歩みましょう。その為にキリストの言葉が私達の内に豊に住むようにしましょう。主の豊かな祝福を戴き、地の塩、世の光として生きる者になれます。