メッセージ(大谷孝志師)

私達の為に苦しむ主
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2019年3月24日
ルカ22:39-46 「私達の為に苦しむ主」  大谷孝志牧師

 受難節の第三主日です。主イエスのゲッセマネでの祈りを通して、私達の為に苦しまれた主の思いを一緒に学びます。主と弟子達は最後の晩餐を終えると、オリーブ山に出かけました。そこにゲッセマネがありました。ゲッセマネとは油絞り場の意味で、そこが主のいつもの祈り場になっていました。

 主は十字架の死が切迫していたことを知っています。十字架刑はローマの政治犯や重罪人の処刑方法でした。しかしユダヤでは、木に掛けて殺されるのは、神に呪われ、神との関係を断絶された者のしるとされていました。主は十字架に掛けられるが、神が自分を呪い、関係を断ち切るとは考えていません。しかし、人々が神との正しい関係を失っているので、このままでは神に呪われ、関係が断ち切られてしまいます。そのままでは人は全て滅ぼされてしまいます。それに、人を創造した神の御心ではありません。神は人を自分と共に生きる者として造られたからです。ですから主は、人々と神との和解の道を開く為に、自分が神に呪われ、関係が断ち切られる道を歩まねばならないと知っていました。御子として父なる神の痛みを知っていたからこそ、十字架への道を歩んでいたのです。主は命を捨てることが御心と分かっているのに、何故「御心なら、この杯を私から取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、御心がなりますように」と祈ったのでしょうか。マタイ、マルコのようにイエスの悲しみ、苦しみの言葉はありません。でも43,44節で、ルカは御子イエスと父なる神の激しい苦しみと痛みを示しています。主イエスは、全ての人の罪を一身に負い、十字架に掛けられ殺される為に、人として世に生きていたからです。でも、主は肉体の死を決して恐れていないません。でもどうして「取り去って」と祈ったのでしょう。神から断絶されることの重さは、取り去ってもらえるのなら取り去って欲しいと思う程大きなものだったからです。だから主は苦しみもだえたのです。実は御子を世に与えた父なる神にとっても同じだったのです。神が大きな痛みを感じたことが、御使いが天から現れ、イエスを力づけたことが示しているからです。

 ユダヤ人は普通は立って祈るのに、主は跪いて祈りました。これも、この時の主の苦しみが尋常でなかったことを示しています。主は苦しみもだえて、いよいよ切に祈り、汗が血の滴のように地に落ちたとあります。これは血涙や血の汗ではありません。主の苦しみがそれ程大きかった事を表しています。神がイエスを断罪しなければならなかったのは、聖なる方だからです。神はイスラエルを自分の民とする永遠の契約を結び「主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くおられるうちに。悪しき者は自分の道を、不法の者は自分のはかりごとを捨て去れ。主に帰れ、そうすれば、主は憐れんでくださる。私たちの神に帰れ、豊かに赦してくださるから」とイザヤに呼びかけさせました。しかし人は神に反逆し、神に滅ぼされる罪人のままだったのです。神は誠実な方で聖なる方です。ですから契約を守り、世の人々の罪を取り除き、神の民として受け入れる為に、御子イエスを世に与えたのです。

 神が罪人を愛するが故に赦し、永遠に神と共に生きる者とする為には、御子を十字架に掛けて殺さざるを得なかったことに矛盾と葛藤が現れています。正に神ご自身が激しい痛みを感じているのです。その痛みを主自身が受け止めたからこそ、主イエスは苦しみもだえて祈ったのです。私達はイエスのゲッセマネでの祈りを、どのように受け取り、どう答えたらよいのでしょうか。

 ルカのこの祈りは、三人の弟子達と少ししか離れていないマタイ等と違う状況にするように聖霊がルカに示したからです。主は弟子達を残して、4,50㍍は離れた所で、一人祈ります。彼らとの別離の時が迫っていた主は「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と命じました。主が十字架で死ぬと、目に見えなくなり、これ迄とは全く異なる状態になります。そこに悪魔に付け入る隙が出来るので、主はそう命じたのです。悪魔の力は強力でも、祈ることによって、主の助けを戴き、誘惑をはね除けることが出来るからです。

 主と弟子達は約二年半生活を共にする親密な関係を続けました。律法学者と弟子によく見られた関係でしたが、主と弟子達の場合は、神の御子と人の関係でした。だから彼らの無理解が時折表面化し、混乱も生じました。主は全てを知るが、人である彼らには先の事は全て分からないからです。主が見えなくなると、弟子達が更に不安になり、悪魔の誘惑に陥る危険性が増大するからです。しかし40節の主の「誘惑に陥らないように…」との言葉には彼らへの主の優しい配慮と愛が満ちています。主は彼らが誘惑に陥らないことを望んでいるし、願っていると彼らに知らせる言葉だからです。主は十字架の死、神に断絶され断罪される死に苦しみ悶えていても、それは彼らの為なのです。だから彼らへの配慮を忘れません。それが私達が信じる主なのです。

 主は祈り終えると弟子達の所に帰ります。やはり彼らは悲しみの果てに眠り込んでいました。その彼らに「どうして眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」と主は言います。ルカは3回繰り返さずに、この一回に読者を集中させます。主は眠っていると悪魔の誘惑に陥る。だから霊的に起きている為に、起きて祈っていることが必要だと教えたのです。弟子達が主の十字架の死と復活後、聖霊に満たされて、福音を宣べ伝える働きを始めますが、その時これが必要になるからです。私達も教会に連なる者としている限り、主は私達にも同じように命じています。彼らの働きを引き継ぐ務めを託しているからです。これは信仰によって理解できる事です。

 主が私達にも命じるのは、私達も霊的に眠ってしまうからです。弟子達は主が自分達から遠く離れたことで、主のいないと強く観じ、悲しみに沈み込み、やがて眠り込んでいました。主がその彼らの為に苦しんでいたのにです。主はその彼らを起こし、今は肉体的に眠っていたが、霊的に眠ってしまうと、悪魔の誘惑に陥り易くなってしまうから、霊的に目覚めているよう祈っていなさいと教えました。ですから、事ある毎に祈るようにしましょう。祈る時、私達は霊的に目覚めているからです。私達は祈る時、主が十字架に掛かり、私達の為に苦しんだことを心に刻めます。その主を思う時、悪魔の誘惑をはね除けられます。不安は消え、喜びで満たされます。主に感謝しましょう。