メッセージ(大谷孝志師)
主が与える豊かな恵み
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年3月24日
IIペテロ1:3-11 「主が与える豊かな恵み」 牧師 大谷 孝志

 今日の箇所でペテロは、この世に生きるキリスト者である私達がどのように生きたらよいのかを教えています。前提となるのは、神がご自身の栄光と栄誉によって私達を召し出して下さった事です。教会に来る前の私達は神を知りませんでした。神社仏閣の存在は知り、漠然と神の存在を感じてはいても、真の神を知らなかったのです。しかし教会に来て、聖書と教会の人々の交わりの中で、真の神の御力で私達を支え導く方、私達が人として神に喜ばれる生き方が出来るように必要な全てのもを与えて下さるのが、主イエスだと知りました。私達キリスト者には、主イエスから尊く大いなる約束を与えられていました。素晴らしいことです。それだけではありません。それが与えられているのは、読者であるキリスト者が、欲望をもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となる為なのです。この約束が与えられているのからこそ、私達は希望を持てます。自分自身を見ると、弱く惨めな人間にしか思えません。教会に来る前は、自分なりに精一杯生き、色々な事が出来る人間だと思っていました。しかし主イエスを知ると、誘惑に弱い人間だし、正しいと分かっている事が出来なかったり、人間としてしてはいけないと分かってる事をしていることに気付かされました。それだけでなく、先の事が分からないし、人の心の中も分からないので、思いつきや自分の気持ちだけでしてしまい、その言動で他の人を傷付けていたことも知りました。

 でもそれだけだったら、教会に行きたくなくなったり、生きるのがいやになったかもしれません。しかし主イエスを信じ続けたし、教会にも行き続けました。自分が変われる、皆と一緒に生きられるし、協力して何かを作り上げられると思えるって素晴らしいことだったからです。希望を持てるって素晴らしいことです。

 ペテロは「信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」と勧めます。兄弟愛は人間同士の愛です。愛は神の愛です。真の神を信じる者同士として、相手をそのまま受け入れるのが兄弟愛です。でも色々な人がいるし、思いはあっても実行できないのが人間です。どうしても、中途半端な関係になりがちなのです。だから、この自分を愛した神を思いなさい。私のために十字架に掛かってくれた主イエスを思いなさいとペテロは勧めるのです。でも難しいことです。でも必要なことです。だから努力が必要です。ペテロはあらゆる熱意を傾けてこれをしなさいと言います。これらのことに豊かになるなら、私達は役に立たない者、実を結ばない者になることはないと言います。ペテロは主イエスの御心と御力を知り、何より全ての人に注がれている主の愛を知ったのです。何より、彼自身が、主イエスが捕らえられ、引いて行かれた大祭司の家の庭で、主との関係を三回否定しました。その時主が振り向いて彼を見つめたのです。彼は主が自分の罪を赦したのを知り、外に出て激しく泣きました。主は全ての人の罪を清めて下さっています。彼は自分の経験から私達に出来ると知るから勧めるのです。主は努力出来るよう私達を励ましてくれます。主が共にいるのですから、決して躓くことはありません。信仰的に成長しようと思い、励みましょう。私達は自分が神の国にいると自覚できます。主が私達が神の国にいることを望んでいるのです。主が私達を愛しているからです。私達は主のものです。主の愛に覆われています。主は誠実な方、真実な方です。豊かな恵みを戴き、主と共に世に生きる者になりましょう。

パウロは、読者に様々な「徳目」と呼ばれるものを身に着けるように命じます。 「深い慈愛の心」「親切」「謙遜」「柔和」「寛容」は、全てキリスト者が主に相応しい者として生きる為に必要なものです。彼は何故命じるのでしょう。そうすることが主の御旨であると知るからです。それが信仰者としての正しい生き方だからです。彼は福音を伝える器として、御旨を正しく教える務めを主に託されていました。霊である主は、彼に親しく語り、語るべき事、なすべき事を教えました。ですから、確信を持って命じることが出来たのです。更に彼は、五つの事を身に着けるように命じています。私達はここを読んで、とても出来ないと思う必要はありません。私達も「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者」とされているからです。神の豊かな恵みを戴いているのです。私達にも出来ます。だから、パウロは命じるのです。それに何よりも、そうなる事を主が望んでいるからです。その事を信じましょう。次もそうです。「互いに忍耐し合い、誰か他の人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい」とパウロは言いますが、そうすればよいと分かっていても、私達にとって、その実行はとても難しいものがあります。ですから、パウロは「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」と言い、私達には主の模範があると知らせるのです。そう言われても難しいと思う気持ちは変わらないかもしれません。だからこそパウロは「主があなたがたを愛してくださったように」と主の模範があることを知らせます。

 これは大切なことです。何故かと言うと、私達が徳目を身に着け、忍び合い、赦し合うことによって、私達の教会への誘いが、世の人々にとって魅力的なものになり、教会に行ってみようかという気持ちを起こさせることがあるからです。その為に主が模範を見せていると彼は言います。神が私達を選び、聖なる者とし、愛しているのは、勿論、私達を幸いな者とする為ですが、世の人々に、このような幸いな生き方が自分達にも出来るのだという模範を示させる為でもあります。

 私達がそのような幸いな人生を生きていても、自分の心の中に闘いがあり、他人の無理解や誤解、中傷との闘いがあります。だからこそ、主が模範を示したのです。主イエスは十字架の上で、十字架に付けろと叫んだ人々、嘲り罵る人々の罪の赦しを願って、神に祈りました。三度主との関係を否定するペテロの為に、彼の信仰が無くならないように祈ったのです。マタイ5:44の「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とのご自身の教えを実践し、模範を示しました。私達が今教会に連なっているのは、真の神を礼拝しているのは、主が私達にそのような模範を示し下さったからなのです。ですからパウロは主の模範に倣い、同じようにしなさいと命じるのです。そうするなら、私達に更に素晴らしいことが起きます。十字架の主の前に立たされている自分を知り、十字架の死にまで従順だった主の模範に倣うよう促されるのです。主が私達を包み込んでいるからです。

 主は私達を共に平和に生きる為に教会に、礼拝に招いたのです。それは世の人々にこの福音を伝える場、実践し証の場として教会が立てられているからです。私達はキリストの平和に支配されていること、一つの体として成長していくことが求められています。私達をここに招き、祝福して下さる主に感謝し、その主を模範として歩みましょう。その為にキリストの言葉が私達の内に豊に住むようにしましょう。主の豊かな祝福を戴き、地の塩、世の光として生きる者になれます。