メッセージ(大谷孝志師)
人の弱さを知る主
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年3月31日
マルコ14:66-72 「人の弱さを知る主」 牧師 大谷 孝志

 弟子達は主イエスが、自分達の主で、先生でもあり、神を父と呼ぶ神の子、救い主だと知っていました。だから二年半も主と共に生活していました。しかしその主イエスが、捕らえられ、十字架に付けて殺されたのです。それはユダヤ教徒である彼らにとっては、神の裁きとしか考えられない恐ろしいことでした。彼らは激しく動揺し、これ迄の自分達の歩みを全てひっくり返されてしまったのです。彼らは蜘蛛の子を散らすように主イエスを残して逃げ出しました。ペテロは主が十字架に付けられて死ぬ前、主に「あなたがたはみな、躓きます」と言われ、「たとえ皆が躓いても、私は躓きません」と言い切ります。主はペテロが三度主を知らないと言うと知っていました。主は人の将来を知っていますが、人には先の事は全く分かりません。人は神との間の幕だけでなく、時間という幕に覆われているからです。ですから、先の事は想像するしかありません。それで、自分の経験と知識に頼って判断しようとします。ですからペテロのように、他人が躓く可能性は認めても、自分がそうする可能性は認めたくないのです。しかし主には時間の幕はありません。時間を超えて、主は私達の全てを知っています。その主が私達と共にいるのですが、私達は主がそう言っても、ペテロのように自分は出来ると思ってしまう弱さを持ちます。自分程自分を知る者はいないと安心してしまうからです。そのような私達に、聖書はペテロの躓きを通して大切な事を教えます。

 私達は自分の事はよく分かってると思っても、人の言葉や表情に動揺して、可能だと思っていた事を不可能だと思ったり、自分には出来ないと思っていた事が出来ると感じる時があります。意外にふらつき易いのが人間なのです。それでも、自分に自信がないと生きていけないと思ってしまうのも私達なのです。だからペテロは「皆が躓いても、私は躓きません」と言い切れたのです。しかし、ペテロの全てを知る主は「あなたは三度私を知らないと言う」と宣言します。それを聞いたペテロは動揺します。それが「例え、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどは決して申しません」という念押しの言葉に表れています。他の弟子達も同様でした。不安や恐れの思いを彼に追随することで消そうとします。私達は「だれでも私に従ってきたければ、自分を棄て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい」との主の言葉をどのように聞いているでしょう。私達は主を信じ、主と共に生きたいと願っています。しかしこの主の言葉の前に立つ自分を思う時、私には無理です、自分なりに頑張ってはいるのですと主に訴えることはないでしょうか。自分を防御したり、自尊心を保とうとするからです。

 しかし、主は人の弱さを知る方として私達の前に立っています。それが私達が信じる主です。自分の弱さに負けたペテロは、不甲斐なさに泣き崩れました。復活した主は、彼の弱さ、反抗、保身、拒絶の全てを包み込んで、彼に「私を愛するか」と三度尋ねます。時間と空間という幕に包まれた世界の中で、好き勝手に生き、それ故、保身第一に生きざるを得ない私達を主は愛で包み込んでいます。

 主は全てを知った上で、私達が自分の意志で主を拒絶することを放置します。主は、人が主に躓き、主を見失い、自分で自分の弱さを自覚するその極限状態まで放置し、人が臨在の主に気付き、素直に主を見上げる時を待っています。主は、限界の中で葛藤する私達を愛と赦しで包み込み、私達が自覚的に自分を主のものとし、自分を棄て、自分の十字架を負って従って来るのを待っていて下さいます。