メッセージ(大谷孝志師)

主に何を求めているか
向島キリスト教会 受難節第五主日礼拝説教 2019年4月7日
ルカ23:32-43 「主に何を求めているか」  大谷孝志牧師

 今年の受難節は、ルカの福音書を通して主の十字架の出来事を学んでいます。ルカは、マタイ、マルコと違い、主が犯罪人の一人として十字架に付けられたと強調しています。十字架に掛けられる前の鞭打ちと侮辱行為が無い替わりに、主が十字架に掛けられることを悲しむ大勢の人々への言葉、十字架上でも共に付けられた犯罪人達との対話があるからです。更に、多くの有力写本にない主を十字架に付けた人々への執り成しの祈りもあります。この祈りは、十字架に掛けられている主の全ての人への深い愛を表すと共に、「敵を愛し、迫害する者の為に祈れ」との教えを主自身が手本となって実行していることを示す祈りです。主イエスに下された十字架刑は、手足を縄で縛る場合もありますが、ヨハネの福音書20章に、復活した主の手に釘跡があったとあるので、手に釘を打たれたのです。それだけでなく、受刑者は脱水症状で死ぬまで、屋外に放置される非常に残酷なローマ帝国の処刑方法でした。
 主は人として生きていたので、苦痛がない筈はありません。しかし、平然としています。それは、その時主がしなければならない事を行う為に、父なる神が力を与えたからです。最初の殉教者ステパノは、神を冒涜したとして捕らえられ、裁判に掛けられました。しかし彼は、自分が神を冒涜したと非難する彼らこそ、聖霊に逆らい、正しい方、主イエスを殺したと彼らを逆に糾弾しました。彼は、憎しみに燃えて自分を見つめる人々を見返さずに、じっと天を見つめていた後、「人の子(主イエス)が神の右に立っているのを見える」と言いました。人々その言葉を聞いて、彼を殺そうとして石を投げつけました。その中で彼は「主イエスよ、私の霊をお受け下さい」「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と言って、眠りについたのです。神は苦痛に勝る平安を与えて、信仰の故に迫害を受けている人を守ってくれます。十字架刑も石打刑も残酷な処刑方です。しかし、神はその刑を受けている人を用いて御心を示すからです。どのような状態に置かれても、主に用いられていると信じれば良いのです。主イエスを信じ、主に従うなら、イエスが十字架の上で父なる神に平安を与えられているように、その人は神の国、神が支配する世界にいます。私達もどんな状況に置かれようと、主が自分と共にいると信じましょう。私達には主は見えません。しかし彼が聖霊に満たされ、天を見つめた時に、神の栄光と神の右に立つイエスを見たように、主は神の右にいて私達を見つめ、御手を差し伸べ必要のものを与え、守っているのです。
 主は十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と、自分を十字架に掛けた人々の為に祈りました。その人々にも救いが必要だったからです。私達の周囲にも、主が、自分が何をしているのか分かっていないと見ている人が大勢います。その人々は滅びに向かっています。不安や恐れの虜になってしまい、本当の平安も現実に負けない喜びに満ちた生き方があるのも知らずに生きているのです。それを知っている私達は、その人々を放っておいて良いのでしょうか。主は私達に、その人達の為の働きをも求めているのではないでしょうか。
 私達は日々、主に様々なものを求めて生きています。自分の為もありますが、病人の癒しの為に、落ち込んでいる人が生き生きと希望をもって生きる為に、家族や友人の救いの為に祈っています。何故祈るのでしょうか。自分も相手も神の国にいると信じるからです、神は求めるものを与える方と信じるからです。主のように、ステパノのように、世の人達の為に私達も執り成しの祈りをしているのです。勿論、世の人々は私達に敵意を持っていないし、殺そうと思っているのでもありません。私達が福音を伝えても、主のもとに来ようとしないだけです。私達は、何故来ないのかを考え、なかなか来ようとしないと諦めてしまいます。しかしそれではいけないのです。主もステパノも何を求めたのでしょうか。彼らの罪の赦しを求めたのです。私達もまず、その事を主に求めることが大切と気付かされます。世の人々は、教会に来ないことが滅びを意味しているのを、闇の中を歩いているのを知らないのです。まず、人々の罪が赦され、悪の力から解放され、心の目が開かれるよう主に求めましょう。自分を愛し、招いている主に気付けるように祈りましょう。
 マタイとマルコは、十字架上で犯罪人達がイエスを罵ったと記します。ルカでは、一人が議員達や兵士達と同じように罵り、もう一人は、主に正しい態度で語り掛けています。罵った犯罪人は私達の周囲にいる世の人を象徴しています。と言うのは、世の人の多くはイエス・キリストのことを知っています。しかし罵った人のように、自分が聞いた知識の範囲でイエスを判断しているのです。自分にとって損か得かがイエスを、教会に来ることを判断する基準になっているのではないでしょうか。主であり、全ての支配者であるイエスの本質を知らないからです。それだからこそ私達には希望があります。世の人が教会にいる私達とイエスに魅力を感じ、自分の人生、生き方に役に立つ可能性を見出すなら、教会に来るからです。今、台湾にはリバイバルの波が押し寄せ、一年に千人を超える人が救われている教会もあるそうです。キリスト者の内に喜びがあり、世の人がどうしたら教会に来て、その喜びを感じてもらえるかを考え、方法を見つけ出し、実践しているからです。勿論、キリスト者の願いを主が助け下さっているのですが、彼らが自分達の信仰の喜びを、本当の安心と幸せを伝えたいとの思いがあるからです。世の人が、教会に来れば、本当に幸せになれると分かれば、教会に来て、救われるという出来事が、今、台湾に起こっていることを、私達は心に刻んでいましょう。
 もう一人の犯罪人は罵った人を窘め「お前は神を恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているではないか」と言います。彼は自分達が罪を犯したので神に裁かれていると知っています。彼は自分に必要なものを主に求めていません。主が御国に入る時に、私を思い出して下さいと願っただけです。主の思いに全てを委ねたのです。主の御心、主の計画が分からず、様々な不安や恐れを感じながら生きている人々がいます。主に全てを委ねて、自分を主のものとして生きていたら、その人は安心して生きられます。私達はその事を知っています。私達はその事を伝える為に主に召されていると知りましょう。