メッセージ(大谷孝志師)
私達が召された理由
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年4月7日
Iペテロ2:18-25 「私達が召された理由」 牧師 大谷 孝志

 主イエスを信じていても、不当な苦しみを受けることがあります。病気やけが、転勤、入学等で環境が大きく変わったことで苦しんだり、辛い思いをした時は、何故、自分だけがと思うが、理由や経緯が分かっているので、どんなに辛く苦しくても、仕方がないと思ったり、時期を待つことも出来ます。しかし、理由や意味がどうしても見出せない場合は、その辛苦にやりきれなくなってしまいます。自分がどんなに誠実に生きようと思い、相手の為に一生懸命に生きようとしても、揚げ足を取られたり、中傷され、誹謗されたりすると居たたまれないと思います。
 しかし今日の箇所は、そのような目に遭っている人に優しく語り掛けています。主は、私達が置かれている現実の厳しさを、善意が善意として通じないことがあるのを知っているのです。ですから主はみ言葉によって、私達に希望と勇気を与えて下さるのです。主に感謝しましょう。ペテロは、「善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい」と言います。「もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれること」だからです。彼は徹底した服従こそが神に喜ばれることだと教えます。
 自分にはこの苦しみの理由が見つからない、良い事をしているのに、人に苦しめられる。神に喜ばれようと一生懸命なのにどうしてなのか、と思うといやになります。しかし私達が気が付かなければいけないのは、その全てを神は見ていることです。神は私達にとって必要な事をしているのです。ペテロは「悲しみに耐えるなら」と言います。私達は耐えられるのです。主が共にいるのです。主は耐えられない試練には遭わせません。でも彼は信仰的理想論を述べているのではありません。彼は自分の弱さを知っています。その弱さを覆う主の愛を知っています。大切のなのは「神の御前における良心のゆえに」という言葉です。自分も相手も愛している神に全てを委ねる心を持つことです。私達は共に神の国に生きているのです。私達が神の国に生きていることを世の人々に表す者となることが御心で、その目的の為に私達はこの教会の一員として招かれていると知ることです。
 忍耐強く服従することは大切です。事が荒立たないからです。しかしそれだけでは傲慢な者は傲慢のまま、卑屈な者は卑屈のままで、決して神の愛に満たされた群れにはなれません。ですからペテロは3:8.9で「最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し。心の優しい人となり、謙虚でありなさい。悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」と教えます。皆共に主の御前に立つことが大切なのです。一人一人、個性があり、信仰のあり方についても考え方は違います。大切なのは、自分が遭っている辛苦に負けないことです。主に愛されている自分を忘れないことです。悪の力がこの世に働いているのは事実です。世の人も不当な苦しみに喘ぎながら生きています。私達がそれに負けない強さがあることを知らせましょう。傲慢にも卑屈にもならず、謙虚でいながら堂々としていましょう。主イエスを信じるとこんな生き方が出来ると知らせましょう。
 この世は闇の世界ではなく光の世界であり、他人の悪意や中傷に負けない力を主イエスが与えてくれます。主を信じれば、そのような生き方が出来ると知らせましょう。この為にこそ私達は召されたのです。地の塩、世の光になれます。主は私達の全てを知り、必要な事をしています。主に全てを委ねて生きましょう。