メッセージ(大谷孝志師)

主の十字架は何の為
向島キリスト教会 受難節第六主日(棕櫚の主日)礼拝説教 2019年4月14日
ルカ23:44-49 「主の十字架は何の為」  大谷孝志牧師

 今週の金曜に当たる日に、主は「どくろ」、クラニオンと呼ばれている所で十字架に付けられました。マタイとマルコは「どくろ」と呼ばれるゴルゴタで十字架に付けられたと記しています。聖書はギリシア語で書かれたのですが、イエスの時代の民衆が日常使っていたのはアラム語でした。マタイとマルコは主にユダヤ人に向けて書かれてるので、「タリタ クミ」等と同じように、アラム語をそのまま使い、ルカはギリシア語を使う人達に向けて書かれているの「『どくろ』と呼ばれている場所」と記しました。恥ずかしい話ですが、教会で説教をするようになって約50年になりますが、説教準備をしていて初めて知った事があります。ゴルゴタはラテン語でカルバリアと訳され、カルバリ山とゴルゴタは同じ意味だったと知ったのです。今日の聖歌のようにカルバリ山で主は十字架に付けられました。時間はマルコだけが九時と記しています。十字架上の主を民衆は立って眺め、議員達は「あれは他人を救った。もし、神の子キリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい」、兵士達は「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」とイエスを嘲り、犯罪人の一人も「お前はキリストではないか。自分と俺たちを救え」と言いました。

 三時間が過ぎた十二時頃に、全地が暗くなり、午後三時まで続きました。三時間続いたので日食ではありえません。太陽が光を失ったのです。神が十字架の意味を知らせたのです。これは人々が経験できた霊的出来事だったのです。神は、主イエスを世に遣わし、様々な教えと奇跡により、人々に神の恵みの力を現し、主イエスのいる所は神の栄光に満ちた神の国だと示しました。主と共にいるなら、その人は光の世界にいます。しかし、神は十字架によって、世は、神の裁きと怒りが下す暗闇の世界だと示したのです。

 神はかつて人々が罪を犯したのを怒り、義人ノアを選び、彼の家族以外の全ての人を大洪水により殺しました。しかし、その後も人は罪を犯し続けたのです。神は再びアブラハムを選び、彼と契約を結び、彼の一族の神となりました。その後ヨセフを選び、彼をエジプトの宰相とし、その民をエジプトに移住させました。それは民を罪の世界を象徴するエジプトからら導き出し、霊的に成長させるする為でした。神はモーセを通してシナイ山で十戒を民に与え、彼らが神の民に相応しくなる道を示しました。しかし、民は罪を犯し、荒れ野で40年放浪し、その後、神は、民を神が御力をもって支配する世界、乳と密の流れる地、カナンに導き入れたのです。しかし民は神に頼らず、人に頼り、王という人による支配を要求し、神は王国となることを許しました。

 しかしそれは人が人に頼る世界であり、神の王国とはなれませんでした。王国が滅び、イスラエルがローマ帝国の支配下に置かれた時、神は御子イエスを世に与え、主イエスを信じる者をその信仰によって救うこととしたのです。神ご自身が人となって世に来て、神が人々に何を望み、この世において何をしようとしてるのかを人々に示したのです。主の十字架は、暗闇が満ちたこの世を、光が満ちた世界に変える為に神が行った恵みの出来事なのです。

 この世の現実を考えてみましょう。昼は太陽の光、夜は暗いが月の明かりがあり、夜は必ず朝になり、昼になります。その中で人は自由に生きられると思っています。しかし、信仰の面から見るなら、死は怖いし、世に起きる様々な事件を思うと不安に駆られ、自分や相手を信じられず、不安と恐れの中で呻くしか無いのが、残念ながら現実ではないでしょうか。神はその事実を知らせる為、主イエスが十字架に付けられてから3時間後、太陽の光を失わせ、実は自分達が暗闇の世にいることを見える形で知らせ、この世の真の姿を人々に示したのです。そうすることによって、世の現実をごまかして、自分に言いように解釈して生きている人々に、この現実は、自分達が神に背を向けて生きているからと知らせることで、恐ろしさを実感させたのです。

 太陽が光を失っていたその時に、神殿の幕が真ん中から裂けました。これこそが、神が主の十字架によって世に行おうとすることを示す出来事でした。神殿は神の住居ではありません。神が人に顕現する場所でした。教会も同じです。牧師家族が住むけれど、神も主イエスも住んではいません。主イエスに会う為に来る所です。肉の目ではなく霊の目で、自分が今主イエスと共にいると分かる所です。もちろん、神は私達が祈る時、聖書を読み黙想する時一緒にいます。しかし主が弱い私達の為、この礼拝堂を聖なる場所、主を礼拝する場所、み言葉が語られ、聞かれる特別な場所と定めて下さったのです。

 太陽が光を失い、世の闇が姿を現しました。その時、聖堂と至聖所を隔てる幕が真っ二つに裂けたことで、この世を主の栄光が照らしたのです。それは霊的出来事で、人の目には見えませんでした。霊の目が開くなら、今、自分達がいる世界が主の栄光が照らす神の国となったと分かります。その為にこそ、主の贖いの死が必要だったのです。主の十字架の犠牲により、私達の霊の目を塞いでいた罪が取り除かれ、霊の世界が見えるようになるからです。しかし、人は罪を取り除かれても、悪の誘惑に負け、罪を自分に引き寄せてしまう弱さ、主の栄光が見えなくなり、闇の世界に引きずり込まれる弱さを残しているのです。その私達の為の助け手が必要です。主が父のもとに帰らなければ、助け手である真理の御霊が私達に与えられないから、主が父の元に帰るという人としてのイエスの死が必要でした。ですから、主は大声で「父よ、私の霊をあなたの御手に委ねます」と言って、息を引き取ったのです。

 次週、十字架に掛かって死んだ主イエスの復活を祝います。主は、私達に人の一生は死で終わらないと示しています。私は中高生の頃、死が恐ろしくとても不安になりました。死ぬと真っ暗闇の中をひたすら落ち続けていくと考えたからです。夢も希望もない世界を考えました。しかし教会に来てみて、主イエスの存在を知りました。イエスが十字架に掛かって死んだことは理解できても、復活したことは全く理解できませんでした。しかし十字架に掛かって死んだままだと思っていた主イエスが、ある時私に語り掛けてきました。イエスは復活し、今も生きていると分かり、イエスを主、救い主と信じて、キリスト者となりました。私は今、素晴らしい人生を、豊かで主の福福に満ちた人生を、十字架に掛かって死なれた主に感謝しながら歩み続けています。