メッセージ(大谷孝志師)

主は復活された
向島キリスト教会 イースター礼拝説教 2019年4月21日
ルカ24:1-12 「主は復活された」  大谷孝志牧師

 主イエスは、前もってご自分の受難を弟子達に告げていました。主は「多くの苦しみを受け、長老達、祭司長達、律法学者達に、殺され、三日目によみがえらなければならない」と言っていた通り、金曜に十字架に掛けて殺され、三日目の週の初めの日、日曜に復活しました。主は金曜の午後3時過ぎに息を引き取りました。主イエスと行動を共にしていた女性達は埋葬の様子を見届けてから、腐臭を防ぐ為に主の体に塗る香料と香油を用意しました。塗りに行かなかったのは、安息日が始まる金曜の日没から安息日が終わる土曜の日没迄、生きる為に必要な事以外は、律法の定めにより出来なかったからです。女性達は夜が明けるのを待ち、急いで主の遺体に油を塗る為に墓に向かいました。主は復活して墓におらず、体に塗れません。しかし死ぬ前に主が言っていた三日目の復活を信じられなかったので、彼女達は、香料を持って墓に来たのです。彼女達には大きな障碍が待っていました。盗掘を防ぐ為に、墓には大きな丸い石の板を溝に落とし込んで蓋にしてあったからです。女性達だけで動かせるようなものではありませんでした。しかし神は、主イエスに奉仕しようとする彼女達の為に、その石を転がしていました。聖書はこう記すことで、主に会いたいと思うなら、主に会う道が開かれると教えます。しかし墓の中に遺体はありませんでした。彼女達は目的の事を行えず、途方に暮れました。聖書は救い主を、人生の導き手、助け手をこの世の中にに捜しても途方に暮れるだけと教えます。本を読み、人と話し、迷い、苦しみ、目の前が真っ暗な今の自分に必要なものを求めて、人生の意味、目標を捜し、真理、真実を求めてみても、徒労に終わると聖書は教えているのです。

 しかし驚くべきことが起きました。まばゆいばかりの衣を着た二人の御使いが「主は復活した」と彼女達に教えたのです。彼女達はこの世に突入して来た神の世界にいたのです。私達は主に会いたいと思いますが、主を周囲の人のように気軽に考えていないでしょうか。もし現実に聖なる方である主イエスと会ったら、彼女達のように恐ろしさの余り地面に顔を伏せるでしょう。私達は罪に縛られ、弱く惨めな者でしかないからです。しかし、その私達の為に主は十字架に掛かって死に、罪を取り除き、弱く惨めなままで、清くして下さったのです。復活した主は、今私達と共にいるので、御霊に助けられるなら、私達は主に安心して会えます。でも、会いたいと思っても会えないと思っているのが現実だと思います。次週に学ぶエマオに帰る途中の二人の弟子は、主が一緒に歩いているのに、主イエスと分からなかったのです。同じように、主が共にいても、私達には教会の兄姉、自分の家族や知人に、町で出会った人にしか見えないのです。彼女達は主に会える希望があると知りました。だから、弟子達の所に行って報告したのです。御使いに教えられ、主が前もって、受難と十字架の死と復活を話していたことを思い出したからです。彼女達が主の復活を信じたと書かれていませんが、使徒達が彼女達の報告を戯言と思って信じなかった事で、彼女達の信仰が強調されています。

 私達も、主の復活を伝える聖書のみ言葉を真実と受け止めましょう。約二千年前に起きた真実を聖書が私達に伝えていると信じましょう。そこから私達の新しい人生の歩みが始まります。目に見えない神の世界に私達も生きていることが分かるようになるからです。主は復活して、今もここにいます。

 さて、主イエスを埋葬した墓から戻ってきた女性達は、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母とその他、彼女達と共にいた女性達だとルカは記しています。マタイはマグダラのマリアともう一人のマリア、マルコはマグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメ、ヨハネはグダラのマリアだけです。弟子達の報告への反応も様々です。マタイはこの報告を弟子達が信じなかったと記しませんが、ガリラヤで復活の主と会った弟子達の中に疑う者達もいたと記します。ヨハネは、主の伝言を聞いた弟子達がユダヤ人達を恐れて戸に鍵を掛けていたと記します。マルコも主が報告を信じなかった彼らの不信仰と頑なな心を責めたと記し、一様に弟子達の不信仰を強調しています。

 そのように、主の復活は確かに信じにくいものです。しかし主が復活した日の出来事は福音書によって多少の違いはありますが、女性達が墓に行った時、主は既に復活して、墓に居なかったこと、御使いが現れ、彼女達に主イエスが復活したと告げことは共通しています。先程の弟子達の不信も多少の違いはあるが共通しています。聖書は、人が聖霊に導かれて書いた物ですが、各記者が自分の記憶と集めた記録を編集して書いたものでもあります。内容に違いがあるのは、聖霊は記者の働き、努力を大事にしたからです。人が報告を受ける取る時、その時のその人の心の状態によって、他の人とは違う印象で受け取ることがあるのではないでしょう。しかし、その人が受け取ったものは、その人にとっては真実なのです。聖霊はそれを大切にしたのです。

 私達の場合も、人によって主の暖かさ、厳しさ、優しさ、恐ろしさ等の主についての印象は異なります。誰のものが正しいかではなく、大事にすべきなのは、その人が主を知ったという事実なのです。その人にとってそれが真の主イエスなのです。、主は死んだが復活したと言われてなかなかも信じられません。弟子達の様子が復活を信じる難しさを教えています。しかし弟子達は信じたのです。復活の主と会ったからです。多くの人達は復活の主に会えません。でも大丈夫です。パウロはピリピの獄中で、看守に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言ったからです。看守は復活の主に会っていません。しかし現実に起きた事に神の存在を感じ取ったのです。その神を信じ、救われたいと思ったのです。真の神の祝福を受けたい、その神を信じるパウロ達と同じ神の国、神が支配する世界に生きたいと思ったのです。彼と彼の家族はパウロの言葉を聴き、イエスが自分達を救う為に世に来て、十字架に掛かって死に、復活し、今生きていると信じ、救われました。主は私達の目に見えませんが、いると信じましょう。主は信じれば、主の存在を感じ取れます。恵みと平安を与えられます。主は復活して今ここに共にいるのですから。私達一人一人の為に十字架に掛かって死に、復活して今も私達を愛し支え続けている主に心から感謝しましょう。