メッセージ(大谷孝志師)
復活を事実とする信仰
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年4月21日
ヨハネ20:19-29 「復活を事実とする信仰」 牧師 大谷 孝志

私達は主イエスを信じていると告白します。でも、信じるとはどういうことなのでしょうか。見た事、確認した事を、私は信じるとは言わないのではないでしょうか。見ていず、確認していないが、それを事実として受け入れる時、「私は信じる」と言うのではないでしょうか。一般的にはそうですが、男性がプロポーズする時、女性に「私を信じて欲しい」言った時、「私を受け入れ、付いてきて欲しい」と言う意味になりますね。会議等で「私が信じられないのですか」と言う時、自分の真実の思い、自分の中身や力を認めて欲しい場合なのではないでしょうか。

 この福音書が書かれたのは、先週も学びましたが、誰もが、イエスが神の子キリストである事を信じる為です。十二弟子の一人のトマスもイエスがかつてそうだった事は認めています。私達も、聖書に記されているイエスの真実の姿や力は認めています。しかし、現実の私にとってそのような方だとは認められないと思ってしまったという時は無いでしょうか。トマスも、主イエスが死んだ今、主イエスが復活し、今も神の子キリストであると信じられなかったのです。見ていない事には自分の常識と経験で判断する以外にはないからです。彼は、見て確認しなければ信じられないと言いました。人間としては当然な言葉です。そして、主イエスに会って、主の復活の事実を信じました。

 しかし主を信じている人の中に、復活した主に会った経験をした人が何人いるでしょう。主は復活後天に昇り、再臨の時まで人の目には見えません。ですから、「主イエスに会ったことはないが、共にいると感じている、だから主は復活したと信じる」というのが殆どのキリスト者だと思います。経験ではなく感触であることに、復活を信じる難しさがあります。しかし、復活を信じられるなら、真の慰めと希望を持てます。例えば、火葬場で白い骨を拾う時、目に見える肉の体が消え、目には見えない霊の体に復活していると信じられると、平安と前向きの気持ちを持てます。聖書の中に記されている主イエスの真実と力に私達が満たされ、今ここにいる主の真実と力を信じているという驚くべき経験をしているからです。

 トマスは何故復活の主に会ったという他の弟子達の言葉が信じられず、その後、信じられたのでしょう。主が復活したのに、トマスが会っていなかったからです。外の世界に新しい事実が起きているのに、古い世界に閉じ込められたままのトマスには見えないからです。朝が来たのが密閉された地下室に閉じ込められた人に分からないように、復活の主の栄光は既に世を照らしているのです。その部屋から出るなら、その人は事実を知ることが出来ます。彼は主イエスによって、自分の心の扉を開けて頂けたからです。しかし今は、主は昇天したままで、トマスにしたようには、私達の所に来て会ってくれません。私達は光のない部屋に閉じ込められたままなのでしょうか。主イエスはトマスと同じように、私達にも「信じない者にならないで、信じる者になって欲しいと願い、私達の心の扉をたたいているのです。それは聖霊の働きです。主は目に見えないが、今も私達と一緒にいると語り掛けています。主イエスが私達と同じ人の姿で復活し、今も生きているとは不思議なことです。しかし、聖霊は私達にそれを信じさせてくれました。私達は、主の復活を信じ、真実な方、力ある方である主イエスを受け入れ、主のようにこの世で生きましょう。主は復活し、共にいます。主イエスの真実と力に与り、主が支配する神の国に生きていると信じ、喜んで生きる者になりましょう。