メッセージ(大谷孝志師)

信じる者とする為に
向島キリスト教会 イースター礼拝説教 2019年4月28日
ルカ24:13-35 「信じる者とする為に」  大谷孝志牧師

 この日とあるのは、主イエスが復活した日です。クレオパともう一人の弟子達が使徒達がいたエルサレムを離れ、自分達の村エマオに帰っていました。彼らは話し合い論じ合っていたとあります。恐らく主イエスの十字架の死についての考え方と今後の対応について意見が違ったからです。私達も教会、CS、女性会のあり方や将来、使命と働き方等についての意見が分かれる時もあります。時には、躓く人や教会を去る人も出てくる場合もあります。それは、自分は正しい、人は間違っていると考えるからです。二人の弟子は主の復活を否定も肯定もしていません。二人は他の人が見聞きした主イエスの復活を聞いてもとても信じられなかったのです。勿論、葛藤はあったと思いますが、エルサレムと十一弟子と他の仲間から離れ、自分の村に向かいながら、そのもやもやとしたものをお互いにぶつけ合っていたのだと思います。

 教会、各会は主が集めた人の群れです。その頭は主であるキリストです。みんなが主の御心を行おうと思っています。主に心を向けています。それに、私達も自分や人の信仰を否定はしていません。それなのに何故意見が分かれるのでしょう。大事な方が見えていないからです。復活の主が来て、共に歩いているのに気付かなかった彼らのように、主が共にいるのが見えず、一人一人を愛し、受け入れ、使命と存在の意味を与えているのが分からないからです。教会の一人一人は見えても、自分達が見えないけれど神の国にいる、主が共にいると頭では分かっているつもりでも、心からそう信じていないと、排除や躓き、分裂が起きてしまうのです。自分に見える世界が全てだと思っているのに気付かないと、二人が暗い顔をして立ち止まったように、暗い顔で相手を決め付けてしまうことがあります。彼らは、イエスは主で、行いと言葉に力のある預言者、イスラエルを解放する方なのだと思っていました。でも、その方をユダヤの指導者達がローマに引き渡し、殺した。それで自分達は失意のどん底に沈んでいると考えました。こうなったのは、自分達が正しいと思う事を正しく評価しなかった他人が悪いからと決め付け、顔が暗くなったのです。例えそうでも、主が復活したと信じられたら、女性子達の知らせを素直に受け入れていたら、起きている真実を知り、彼らの気持ちは全く別のものになっていた筈です。彼らは自分の殻から出られなかったのです。

 彼らは主イエスに出会い、この方と共に生きることで、希望と喜びに溢れたいと思って主に従っていました。私達も教会に来て、教会の人々を通して、主を信じる素晴らしさを知り、この人達と一緒に、主の為に出来ることをしたいと思っています。しかし残念ながら、私達も彼らのように物事を勝手に判断し、失望する弱さと愚かさを持っています。しかし考えてみて下さい。その私達に主は働き掛け、現実の意味との理由を知らせ、克服させて来たのではないでしょうか。主は、愛し選んだ者を見捨てず、共に歩む方です。でも、見えない現実なので、私達人間に分からないのです。ですから、時に失意の底に沈む時、自分が暗闇の中を歩いているとの思いになる時もあります。

 しかし彼らは希望を持ち、心が内で燃えるのを経験し、喜びに満ちて元居た仲間の所に帰ります。目には見えないが、主が共に歩んでいるからです。

 主イエスは、主の復活の事実が隠されたままなので、ご自分に、神に失望し、自分の世界に引き籠もろうとした二人の弟子を信じる者とする為に、彼らを救う為に、共に歩み始めたのです。主は母を通して私を教会に導きました。安心できる友を求めてはいても、イエスが主で、救い主と知らない私は、イエスも教会もどうでも良い存在でした。主はその私を救う為に、柏伝道所の人々に出会わせ、私は伝道所に行き始めました。クレオパともう一人の弟子が、一緒に歩いている人に魅力を感じ、この人のことをもっと知りたい、もっと話を聞きたいと思ったように、伝道所の人々に一緒にいたいと思わせる魅力が有りました。皆さんの中にも、久し振りに教会に来て、この人々の暖かい思いに、笑顔や思いやりのある言葉に触れ、来続けている人もいます。

 さて、主と二人の弟子はエマオの近くまで来ると、イエスはもっと先に行こうとしました。主が将来の選択を彼ら自身に任せたからです。主は私達に自由と責任を与えています。主は人の前に二つの道に分かれる分岐点を置きます。主は人をその前まで連れて行き、選択させます。どちらの道を選ぶかはその人の自由です。クレオパ達は主と共にいる方を選びました。彼らはその方に、この家に居る方が安全だからと言いますが、本音は自分達の為です。

 彼らは主から聖書を解き明かし、キリストについて学びました。後で彼らは気付いたのですが、その時、自分達の心は内で燃えていたのです。これが重要です。私達が教会に来続けているのも、気付かなくても自分の心に変化が起きているからです。彼らはその心の変化に動かされ、主と共にいようと思いました。新たな信仰生活の第一歩を踏み出したのです。彼らは主に強く求め、主は彼らの求めに応えました。彼らは食事を共にし、主がパンを裂きました。これは主の晩餐、礼拝を象徴的に表しています。その時、彼らは神が支配する世界に触れたのです。その時、彼らの霊の目が開かれ、自分達と一緒にいる方が主イエスと分かったのです。主の逮捕と十字架の死で、失意の底に落ちていた彼らは、主からの働き掛けで、聖なる接点に触れたのです。その時、見える現実から解放され、隠された現実に気付いたのです。彼らは主の臨在と自分達が御国に生きていると分かったのです。彼らは心が燃え、喜びで満たされ新らしい人生を歩み始めたのです。彼らは直ちにエルサレムに戻り、主の復活を確信できた喜びを他の弟子達と分かち合いました。もうたまらなく嬉しかったのです。十字架と復活の主は今も生きてここにいます。この後、一人一人それぞれの生活の場に帰ります。そこに主は共にいます。

 この世に生きていると様々な必要なものが出てきます。主は言います。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」。それだけではありません。主は、自分の意志で求めてくる人に啓示を与え、神の世界との聖なる接点に触れさせます。罪を赦され、変えられています。信じましょう。そうすれば、私達も自分の内に起きていた隠されていた事実を知り、新生の喜びに満たされます。