メッセージ(大谷孝志師)
伝道に押し出す主
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年4月28日
使徒1:3-5 「伝道に押し出す主」 牧師 大谷 孝志

 主イエスは復活後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒達に示しました。そこまでしなければ使徒達が主の復活に確信を持てなかったことになります。福音書には確かに弟子達が復活の知らせを信じなかったことがいくつも記されています。しかし、主に会って使徒達が喜んでいる様子も同じように記されています。それなのに、数多くのご自分が生きている確かな証拠を示さなければならなかったのでしょうか。そして、40日に渡って彼らに現れて、神の国のことを語りました。しかし主は、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を守りなさい。…あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを受けるからです。」と言います。使徒達は数々の証拠を示されても、なお、40日間の教育が必要な程、復活を信じることは難しかったのだと、改めて考えさせられます。しかも示され、教えられても、主の証人として世に出て行くには不十分でした。聖霊に満たされるという経験、出来事が必要だったのです。私達からすれば、主と出会うということは素晴らしい経験です。でも、彼らにしても、現実に主と会っている時は確信できても、姿が見えなくなると確信がぼやけてしまうのです。ですから主は、直接教育する時を持ちました。それでも、知恵や知識を頂くだけは不十分でした。その人自身が心の底から変えられる必要が会ったのです。それが聖霊に満たされるということです。主の復活を信じることは聖霊に満たされることによって、自分自身の内に疑念を持つことのない確かなもの、自分自身そのものになるのです。私が生きるのではなく、キリストが私の内にあって生きるのです。主の復活を疑う気持ちがあれば、私達の信仰も教会も成長していけません。復活信仰を確かなものとすることがキリスト者にとって大切なのです。

 ですから、使徒達に聖霊が降り、彼は聖霊に満たされることにより、主が復活され、自分達と共にいることを実感したのです。聖霊に満たされるとは、聖霊と彼らが一つになることです。自分を聖霊に明け渡すことなのです。自分が生きるのではなく、キリストに生きて頂くのです。キリストが私という人間として生きて下さるのです。使徒達は、主の昇天後、約束の時を待ち続け、聖霊が降ると、何者をも恐れずに、大胆に主の証人として福音宣教の働きを始めたのです。

 私達も、十字架に掛かって死んだ主が復活して共にいると信じるから、会堂に来て、主を礼拝しているのです。また家にいて、聖書を読み、祈るのです。主が共にいなければ、いくら聖書を読んでも、心にみ言葉は響いてきません。いくら祈っても、主は聞いて答えてはくれません。心は虚ろのまま、祈りの言葉もただ空しく消えていきます。私達は復活の主が働き掛けて下さったから、キリストを主と信じ、キリスト者になったのです。それなのに、復活信仰が揺らいでしまう、主が共にいると思ってはいないような言動をしてしまうのは、なぜでしょうか。なぜ、いつも主が共にいると信じて生きられないのでしょうか。自分の思いを優先させてしまうのでしょう。主が共にいると信じているはずなのに、いないような生き方をしてしまうのは、自我という壁に囲まれているからです。私達は御心が地に行われるようにと主の祈りで祈っています。主に喜ばれる生き方が出来るよう、主の祈りを真剣に祈りましょう。主は喜んで私達の祈りを聞いて下さいます。私達は主の祈りを真剣に祈る時、自分の殻から出て、神の国生きている自分を感じることが出来ます。そして私達は、伝道へと主に押し出されて行きます。