メッセージ(大谷孝志師)
共に祈ることの重さ
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年5月12日
使徒1:12-14 「共に祈ることの重さ」 牧師 大谷 孝志

 使徒達は主が昇天したオリーブ山からエルサレムに帰ると、泊まっていた家の屋上の間に上がりました。そして彼らはいつものように、ガリラヤからイエスに付いてきた女性達、彼女達は主が十字架に掛けられた時、離れた所に立って見ていました。この女性達とイエスの母マリア、およびイエスの兄弟達と心を一つにして祈っていました。しかしかつて、この身内の人達はマルコ3:21によれば、人々が「イエスはおかしくなった」と言われているのを知り、イエスを連れ戻しにでかけて出かけてきました。父が出てこないのは、主が成人する頃には既に亡くなっていたと考えられています。父の名はヨセフ、仕事は大工です。ヨセフとマリアの子供はヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンと名前は挙げられていない姉妹達です。主が12歳の時の記事で主以外には全く触れられていないので、主は多くの年の離れた弟妹と未亡人の母の為に一家の大黒柱として家計を支えていたと思われます。

 家族から見れば、そのようなイエスが突然家族を捨てて公生涯、福音宣教生活に入ったことは理解しがたいことだったと思われます。それだけでなく、マルタ家族などの親しい援助者はいても、狐には穴が、鳥には巣があるが、人の子には枕する所もないと言うように、野宿も多かったと思われる生き方をするイエスは、なおさら理解できなかったでしょう。マルコ3:31-35の主の言葉も、ご自分と家族の間の微妙な距離を感じさせています。しかし、彼らは変えられました。Tコリント15:7に弟ヤコブに復活の主が顕れたとあります。ガラテヤ2:9には、彼の名がエルサレム教会の中心的存在の最初に、ペテロ、ヨハネと共に記されています。

 今日の箇所には、マリアと主の兄弟達がイエスを主と信じ、主の約束の実現を使徒達と共に祈り求める姿が描かれています。使徒達から見れば、マリアと弟妹達は主と長い間生活を共にした羨ましい人達です。しかし主を側で知りながら、主の本質を見抜けず、世の人々の中傷や誹謗に翻弄され、主の悲しみの一つになっていました。しかし、主イエスの十字架の死と復活の後、変えられた彼らを、使徒達は受け入れ、いつも心を一つにして共に祈る人々になっていたのです。

 共に祈れると言うことは素晴らしいことです。私達の教会でも水曜午前と午後の祈祷会には多くの方が集まり、御言葉を学んだ後、心を合わせて祈る時を持っています。一人一人は主に向かって祈っています。祈りは自分と主との一対一の関係です。勿論、一人で主に祈る時は大切です。思いの丈というか、時には愚痴になったり、主への文句になったりしますが、自分の心、自分の生き方について主に知らされる時でもあります。しかし主は「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。(マタイ18:20)」と言います。集まるとはただ世間話をする為に集まるのではありません。共に祈る為です。私達は声を出して祈ります。人前で祈るのは苦手で祈祷会に出たくない人もいます。しかし祈祷会は、互いの信仰を確認し合える素晴らしい時なのです。また他の人の祈りの課題を知り、自分もその為に祈り、多くの人と心を一つに出来る時でもあります。まだこの世のなすべき事の方に重さを感じたり、この喜びに心を向けられずに、共に祈ることの重さを知らない人々もいます。その人々も主の家族のように必ず変えられる時が来ると信じ、変えられることを信じ求めましょう。使徒達は、主の母と弟妹達と心を合わせて共に祈ることが出来ました。その喜びを私達も心に刻み込み、共に祈る喜びを与える主に期待して祈り続けましょう。