メッセージ(大谷孝志師)

苦難を与える神に涙を流す
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年5月26日
ヨブ16:6-12 「苦難を与える神に涙を流す」  大谷孝志牧師

 私達は神は愛であると知っています。神は罪人の私達の為に御子イエスを世に与え、十字架の購いにより、罪を赦し、神の子とし、永遠に神と共に生きる者とし、日々、神の支配の中に平安に生きる者といています。しかし、ヨブ記を読むとそのような神とは全く違うイメージの神が描かれています。何故でしょう。神の祝福と恵みに感謝しても、自分が滅ぶべき罪人であることを忘れ易いからです。ただ形だけの信仰で、安逸に過ごし易い私達を真の信仰者へと導く為に、鋭い警告を発する為に、ヨブ記は記されているのです。

 ヨブを含め旧約の時代、神はイスラエルの民を愛し、御前に正しく生きる民を祝福し、豊かな富を与え、平安を与えていました。しかし悪を行い、神の掟を守らず、神に背を向けた民に対しては、容赦なく裁きを下し、殺しています。イスラエルの歴史は様々な形で神がイスラエルの民に関わり続けた歴史なのです。神は全世界の人々の神、この世界の真の支配者である故に、神の民が他国を滅ぼす助けもすれば、悪を行う彼らを殲滅する為に異教徒も用いました。神は義なる方であり、聖なる方であり、愛なる方だからです。

 しかし、人は弱く、間違いを犯しやすい存在です。また、神の裁きを受けた時、自分が罪を犯したとの自覚無しに、葛藤し、神に不平を言う時があります。自分が悪いと気付けば、後悔したり、神に悔い改めて、神の裁きを従順に受け入れます。しかし、納得できなければ、神に背を向けたまま滅びの人生を送る者もいます。神は全てを支配し、裁く方ですが、同時に、神は人に自由を与えています。ですから神の祝福を受けるも、拒むも自由なのです。神の裁きを受けても、自分が悪ければ諦めもつきます。でも、どう考えても自分は悪くなく相手が悪いとしか思えないが、相手が神の祝福を受け、自分は神に見捨てられているとしか思うと、激しく落ち込んでしまいます。しかしヨブのように、御前に正しく清く生きている人が、神の激しい裁きを受け、苦しみ呻く姿を見たら、私達はどう考え、どう行動したらよいのでしょうか。

 ヨブ記は、神がヨブの正しさを認め、豊かな祝福を与えていたが、サタンに、彼は神が祝福を与えたから御前に清く正しく生きているので、与えたものを全て奪えば、神を呪い神に背を向けるに違いないと言われて、サタンが彼に災いを与えることを許したのです。正に不条理の一語に尽きます。しかし、神はヨブが神に背を向けることはないと知っているのです。だからこそ、サタンが彼に災いを下すのを神が許したのです。それは、私達がこのヨブ記を読んで行く時に、心に留めておかなければならない第一の事だと言えます。

 ヨブと友人達は、共に神の御前に正しい者として生きていると信じています。その両者の凄まじい対話を通して、私達は主イエスを信じ、主に喜ばれるよう生きていると思っていても、神の御前に正しく生きていない現実を、残念ながら突きつけられてしまいます。そのような私達だからこそ、主イエスの十字架の購いが必要だったのですが、それを感謝する前に、自分の現実を真っ正面から見つめなさいと、主はヨブ記を通して私達に教えています。

 ヨブは、神に責めた立てられている自分は、手に暴虐が無く、祈りは清いと言います。ヨブはそう信じています。では、地が私の血を覆って、神に見えないようにするな、私が叫び疲れた時に逃げ込みたくなるような休み場を作るなとはどういう意味でしょう。神に自分が傷つき、悩み苦しむ様をきちんと見て欲しいと願うことの婉曲表現なのです。神は全てを知り、全ての決定権を持っています。彼は自分の力ではこの状況から抜け出せないと知っています。だから、彼は神に呻きをもって語り、置かれている現状を忍びに忍んできました。でも人間です。忍耐の限界に達したのです。神は私を疲れ果てさせ、激怒して私を攻め立てると言います。彼に災いを下したのはサタン、しかしそうすることをサタンに許したのは神だと知っていました。全ての財産と子供達を失った時「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(1:21)と言ったのは、全ては御心によって行われていると知るからです。彼には、神に呟き、呻きながら、絶望の淵に落ち込む以外に道は無いのです。

 神がヨブに送った敵は、ヨブに向かって大きく口を開け、そしりをもって彼の頬を打ち、彼は平安を望むのに、罪人のように引き回されます。彼にしてみれば、神がヨブを打ち、打ち破って、勇士のように襲いかかるのです。

 このような目に遭って耐えられる人がいるとは思えません。しかしその中で彼は真っ正面から神に向かっています。ですから「今でも、天には私の証人がいる」と言います。神にこのような目に遭わされても、彼は、自分が「誠実で真っ直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者」であることを知る方がいると言います。そして彼は、自分を激しく攻め立てる神に向かって涙を流すのです。彼の証人とは神自身です。この状況でも、主を信じる者は主に期待できます。ここにキリスト教信仰の素晴らしさがあります。主を信じるなら、どんな逆境にも耐え、主を見上げて、力強く生きられます。

 確かにヨブは、自分が置かれている状況が如何に理不尽かを知っています。しかし彼は、自分に理不尽な事をする人々を報復の目標にしていません。彼らを糾弾もしません。彼は、自分と神の間に仲保者、執り成しをする方がいると知るからです。彼は、自分が神が支配する世界、神の国に生きていると信じています。全ての事には神の目的があると信じています。だから彼は天にいる自分の保証人、神に解決を求めます。解決する方は神のみだからです。これが信仰の世界です。ピリピ4:6、7に「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすればすべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」とある通りです。

 私達は人としてこの世に生きる限り、神との関係は断絶されたままです。理不尽、不条理と思っても、ただ御心が行われるように祈るしかありません。しかし助け手がいると主は私達に教えているのです。神が何故放置しているかが分からずに呻く時には、私達も神に向かって涙を流しましょう。感謝をもって願っても、何故という思いが涙と共に湧き上がりますが、私達は神のものです。どんな状況でも十字架の主が、父なる神がここにいるからです。