メッセージ(大谷孝志師)

高く挙げられた復活の主
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年6月2日
使徒1:3-14 「高く挙げられた復活の主」  大谷孝志牧師

 主イエスは、復活後40日にわたって弟子達に現れ、神の国について教えました。その後、彼らの目の前で天に上げられたのです。彼らの目に見えなくなりました。しかし、その前に主は彼らに「聖霊があなたがたの上に臨む時、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」と言いました。主の証人とは何をする人でしょう。ルカ24:46-48を見ると、主は『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中から甦り、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります」と彼らの使命を明らかにしています。とは言え、彼らが分かって証言できるのは、主が苦しみを受け、十字架で殺されたこと、主の死と復活したこと迄です。その次の「罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」は、彼らがこれからする事です。それは聖霊が彼らに降ることによって可能になることなのです。つまり、彼らにとっては未だ起きていない出来事です。しかし彼らは喜んで信じました。主がそう言ったからです。次週学びますが、神は主が約束したことが真実であることを彼らに示し、彼らはその真実を体験したのです。私達は聖書を読みます。聖書はその言葉を真実の証言として受け止ることを私達に求めています。聖書は、主がどのような方か。主は何をする方か。主を信じ、主に従う者にはどんな将来が備えられているかを記しています。聖書が私達に伝えているのは、真実なのです。何故、こう言うのかと言えば、私達には未だ先の事だからです。しかし将来それが与えられると主が束している事です。主が信じるよう求めた事です。だから、彼らは信じて待ち続けられたのです。十日もです。短いようで長い時間だったと思います。

 待ち続けられた更なる理由は、彼らが復活の主イエスと会ったからです。十字架に掛かって死んだ主が霊の体に甦り、自分達の目の前にいて、食事もしたのです。これは驚くべき事実です。女性達からの話を信じなかった彼らは、その真実に直面しました、だから主の約束を信じたのです。真実を体験する、これが大事です。真実は真実であり、否定しようのない事実なのです。その体験が彼らに確信を与えました。そして彼らを待たせ続けさせたのです。

 キリスト者は、主イエスは生きて、今も働いている事を事実として体験したからキリスト者になりました。それが自分にとっての真実となり、真実を体験したからこそ、世の人が到底信じられない事を確信できたのです。主はキリスト者を主の証人として用い、恵みを与え、その働きを守り導くと約束しています。使徒達は、その実現を辛抱強く祈り続け、待ち続けたのです。

 さて、主が天に上げられた時、御使いが彼らの側に立ち、主は再臨すると告げました。再臨は、世の終わりに起きるのですから、今、主を見ることは出来ません。しかし主は見えないけれど共にいます。「神の国はあなたがたのただ中にある(ルカ17:21)」と主が言うように、神の国は来ているからです。

 復活の主は天に挙げられる前に、四十日という長い期間、神の国について彼らに教えたのは何故でしょう。「神の国」は彼らが理解していたものとは全く違う新しいものだったからです。私は教会に来て、神の国の中に生かされていると知りました。しかし神の国は、今まで考えていたユートピアのような天国でも、死後行く所でもないと言われましたが、ぴんとませんでした。私はキリスト者になってから、自分は今神の国にいると実感できました。主はその後も、神の国、神が支配する世界にいると私に実感させ続けています。

 キリスト者になって半年位して、伝道者になる決心をしました。でもそれは自分が決めたに過ぎませんでした。ですから迷い続け、その結果、決心を翻して普通の大学に進むことにしました。教会の人達の中には白い目で見る人もいました。しかしそれから約1年後、主が光と御言葉をもって私を捕らえ、神学部に行き主の証人となる道に導いたのです。悩み苦しむ時も私は神の国にいたのです。そして今、牧師として働いています。これ迄の人生では、どうしてこんな事がと思う時も多々ありました。しかし主は私の為に計画を立て、その道を歩ませていたのです。私は神の国に生かされ続けています。

 この使徒の働きは、使徒達の先頭に立って福音を伝えたペテロ、最初の殉教者ステパノ、異邦人伝道者として立てられたパウロ等の主の弟子達の様々な働きを記しています。伝道は人がするもの、人の言動によって福音が伝えられるのですが、「使徒の働き」は彼らの働きの背後には聖霊の指示、守りと導きがあったと教えます。聖霊はこの私達も守り導いていると知りましょう。

 使徒達は、主が昇天したオリーブ山からエルサレムに帰ると、泊まっていた家の屋上に上ります。天にいる主に真っ直ぐに心を向けたのです。私達にも主は見えません。彼ら同様、私達も見えない主が支配する世界に生きています。主は天に挙げられました。天は宇宙のどこかにあるのではありません。天は神の国と同じ意味です。神がいる所、神が支配している領域が天なのです。復活した主イエスが天に上ったということは、主は神として私達の全てを知り、全てを支配している方なのです。しかもその主は、私達の為に十字架に掛かって死んだ主です。私達を愛し、恵みと平安を与える主です。主は、今も私達を見て、愛の御手を差し伸べています。主は、この地域の人々が福音を聞き、信じない者ではなく、信じる者となる為に、この地域の人々、私達の周囲のまだ主を信じられないでいる人々に救いの手を差し伸べています。その人々が主に救われる時が必ず来ます。私達も、皆で心を一つに、この世の人々の為にその時が必ず来ると信じて待ち続けましょう。彼らはどのようにして待っていたのでしょう。「彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた」とあります。この「いつも」はギリシア語聖書では「専念していた」と訳される言葉です。共通の目標に向かい、彼らはひたすら祈りに専念していたのです。

 主は天に挙げられ、私達の目に見えません。だからこそ見えない主にしっかりと目を注ぐことが必要なのです。主は十字架と復活の主です。見えないけれど、私達を愛し、守り導いています。主に祈り、待ち続けていましょう。