メッセージ(大谷孝志師)
祈りは待つこと
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年6月2日
使徒 1:12-14 「祈りは待つこと」 牧師 大谷 孝志

 私達は、時を定め、或いは事ある毎に祈ります。祈りは「キリスト者の呼吸」と言う人がいました。動物は呼吸により酸素を体内に吸収し、様々な栄養素を生きる為のエネルギーに変換します。同じように、私達は祈ることにより、霊的に生きる力に変換できる神の恵みを吸収しています。ですから私達が生きているということは、神に祈っているからです。弟子達とイエスの家族はいつも祈っていました。これは祈りに専心していたことを意味しています。しかし私達は日常生活の中でするべき事が多くあり、絶えず祈っているわけにはいかないのが現実です。牧師でも、祈れないような事をしたり、考えている場合が多いと反省しています。

 逆に言えば、だからこそ祈りが大切であり、祈ろうと努力しなければならないのではないでしょうか。人は祈る時、自分が神のものであることを意識します。ですから、神に喜ばれないと思うことはできません。まして、人を傷付けたり、道徳に反することもできません。祈る時は神に求め、神の答えを求めているのですから、私は神の前にいる、神は私の祈りを聞いていると信じています。そうでなければ自分の祈りは空しいことになるからです。それに祈るということは、ただ神と話しをすることが目的ではありませんよね。他の人と話すように、神は相づちを打ったり、返事をしてくれません。でも私達は祈ります。事ある毎に祈ります。必要なものがあるからです。応えていただきたいと思うからです。

 さて、十一弟子と女性達は心を合わせて祈っていました。彼らは何の為に祈っていたのでしょうか。確かに彼らも自分達に必要なものを求めて祈っていました。しかし、日ごとの糧を求めて祈っていたのでも、生き甲斐を求めて祈っていたのでもありません。彼らは主イエスが約束した聖霊のバプテスマを、聖霊降臨の出来事が起きるのを待っていたのです。しかしそれによって自分達がどうなるのか、どう変わるのかは全く見当も付かなかったと思います。ただ復活の主が待っていなさいと言ったから待ったのです。だから祈ったのです。その祈りは、私達が祈る主の祈りと同じです。御名が崇められますように、御国が来ますように、、御心が天で行われるように、地でも行われますようにだったのではないでしょうか。実現するのは神自身だからです。主は自分達に聖霊が降る時、主の証人になると言いました。かつて主に二人一組で宣教に遣わされた時、悪霊を追い出し、病人を癒し、自分達がいる所が神の国であることの証人となりました。今度は権能を与えられるだけでなく、聖霊が降り、自分達が聖霊に満たされると主は言います。自分達が全く新しい人に変えられるとは感じても、どんな人生になるのかは全く分かりません。させるのは神ですから、彼らは待ち、祈り続けたのです。

 私達はどうでしょう。水のバプテスマを受けた時、霊のバプテスマも受けました。新しい人に造り替えられています。これは神が私達にした事、確かに起きている事実です。問題は、私達が新しい自分になっていると本当に実感しているかどうかです。古い自分を引きずったままではないでしょうか。霊のバプテスマは人生の部分改造ではなく新築です。私達は新しい人を着ているのです。この霊的事実を自分がしっかりと受け止めることが必要です。私達が新しい自分を自覚する時、私の為に主が備えている新しい道があるのに気付きます。その時、私達は主の恵みと平安に満ち溢れます。主はその時を必ず与えます。気付くのは私達自身の為です。必ず気付けます。その喜びと恵みの時を祈りつつ待ち続けましょう。