メッセージ(大谷孝志師)

神に愛された父と子
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年6月16日
創世記22:1-14 「神に愛された父と子」  大谷孝志牧師

 今日は父の日です。「日本ファーザーズ・デイ委員会」という組織があり、毎年「ベストファーザー」を選び、「イエローリボン賞」を贈っています。黄色には「安全や希望」を表す意味があり「家族の安全と希望を守る父親」に相応しい色とされているそうです。今年は6月5日に発表・授賞式が行われ、書道家の武田早雲氏、俳優の佐藤二朗氏ら4人が選ばれました。「父の日」も「母の日」と同じようにアメリカで始まった行事です。「母の日」の説教を聞いたソノラという女性が、南北戦争後、男手一つで6人の子どもたちを育ててくれた亡き父を思い「父の日」を設立するように牧師協会に願ったことから始まったそうです。「母の日」はカーネーションを贈りますが、父の日は「バラ」が一般的です。今朝は父と子についての御言葉を学びます。

 アブラハムは元の名はアブラム。99歳の彼に主が現れ、彼の神、彼の子孫の神となる契約を結び、子孫にカナンの全土を与えると約束しました。そしてアブラハムという名を与えました。彼が100歳、妻サラ90歳の時、主が約束した通りに男の子が生まれ、彼はイサクと名付けました。イサクは主が約束したから生まれた子です。やがて彼の子孫が神の民イスラエルとなります。彼はアブラハムにとって神の祝福のしるしであり、祝福の源となる子でした。

 しかし、神はアブラハムを試練に遭わせました。試したのです。神は「あなたの子を」「あなたが愛しているひとり子を」「イサクを」と目的語を三重に強調して、その子を全焼の献げ物として献げよと言いました。「全焼の」とは生け贄を焼き尽くすことです。息子を殺せ、命を奪えと命じたのです。父としても、神を信じ従う者としても到底従えないとしか思えない命令です。

 アブラハムは翌朝早く、二人の若者と一緒に息子イサクを連れて神が告げた場所へ向かいました。彼は75歳の時には、神に「あなたは、あなたの土地、親族、父の家を離れて、私が示す地に行け、そうすればあなたを大いなる国民とし、地の全ての部族はあなたによって祝福される」と言われ、彼は告げられた通りに祝福されると思う地に出て行きました。しかし今回彼は、神の約束が実現しなくなると思う所に出掛けて行くことになります。毎月学んでいるヨブ記のヨブは、神に祝福されて得た全ての恵みを奪われましたが、その時、悔い改めて神を礼拝し「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言いました。ヨブと同じように、彼も神に絶対的に服従します。しかし彼の言葉は、最初に呼び掛けられ「はい、ここにおります」と答えて以来、三日目にその場所が見えるまでありません。彼は黙々と主の命に従ったとの印象を受けます。イサクは彼の最初の子ではありません。彼と妻サライの間に子は無く、彼女はエジプト人の女奴隷を夫に妻として与えたのです。彼が86歳の時、男子イシュマエルが生まれた。しかしその息子は神の民でしたが、神は彼を祝福の子、彼の全てを受け継ぐ独り子とはしませんでした。神はイサクだけを彼の独り子、神の祝福を受け継ぐ子としたのです。しかし、その彼の息子、彼が愛している独り子イサクを殺せと神は命じたのです。

 アブラハムは神が命じたからその通りにしました。三日目に彼が目を上げると、遠くの方にその場所が見えました。「目を上げる」「三日目」は重要です。イエスが埋葬された墓に女性達が来たのが三日目です。彼女達が目を上げると、入り口の石が転がしてあるのが見えたからです。神は自分の思いを遙かに超えた方であり、自分と息子にとって最も必要なこと計画し、それを行う方だと信じたことをこの言葉が暗示しています。ですから、彼は息子を殺す事が御心と信じ、全てを主に委ねて最後まで行動します。ですから彼は、息子イサクを殺して神に捧げる為に、神に告げられた地に向かいます。同時に彼は、自分と息子はあそこに行き、礼拝をして若者達の所に戻って来ると信じています。だから彼は、若者達にそう告げて、そこを出発したのです。

 イサクは父と一緒に行く中で、全焼の捧げ物にする羊はどこかと尋ねました。当然です。父は「神自身がそれを備えるのだ」と答えます。息子はそれ以上何も言わずに一緒に目的地に向かいました。その所に着くと、父は祭壇を築き、並べた薪の上に息子を縛って乗せました。イサクは父に何も問い掛けません。父が黙々と神の命令に従って行動していたように、黙々と父がするままになっています。誰でも、子であれば父がいます。男で子が生まれれば父になります。アブラハムとイサクは父と子、肉親の関係。だが肉親の情を思わせる描写ありません。とは言え、冷たい関係ではありません。

 神はこの父と子の関係を通して人として正しい生き方を教えているのです。アブラハムもイサクも先の事についての確信はありません。神の目的は分かりません。ただ神の命令だから従います。神は祝福の約束は守ると信じるからです。父が神の命令は正しいと信じたように、子も父の言動は正しいと信じています。自分を殺そうとする父を信頼し切っています。何故でしょう。子は父の行動が父の信仰の故と信じ、受け入れているからです。彼らは互いが神と繋がっています。それによって親と子が互いに心から繋がっています。

 アブラハムは刃物を取り、息子を殺そうとしました。彼は神が止めさせると信じたからではありません。神は彼の心の内まで知ります。だから神は彼が我が子を殺すつもりと知っています。しかし彼が神の命令を守る為めには、自分の独り子イサクさえ最後まで惜しまないかどうかを試したのです。神が冷酷なのではありません。彼らを用いて私達に大切なことを教える為です。彼は惜しみませんでした。彼は自分も息子も神に献げ尽くしたのです。そして神はその子を殺すなと命じます。我が子を殺したくて殺す父はいません。なぜ殺すしかないところまで神は追い詰めたのでしょう。神を信じ、従うとはどういうことかを私達に教える為です。アブラハムはイサクに、我が子を殺そうとする父に従うことを求めました。自分を完全に放棄し、父に与えることを求めました。神はご自分を信じるなら、相手となる人を徹底的に信じ、受け入れることを求めます。それが神の国、神が支配する世界に生きることなのです。父は子を、子は父を信じ受け入れました。二人は神に愛される父と子となり、豊かに祝福されました。互いを信頼に足る人と受け入れ合う時、そこに神に喜ばれる人間関係が生まれ、そこが真の教会、神の国になります。