メッセージ(大谷孝志師)
主に心を留めよう
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年6月16日
ピリピ4:4-9 「主に心を留めよう」 牧師 大谷 孝志

 パウロは「いつも主にあって喜びなさい」と言います。私達は様々な人と接するので、心が乱れる時があります。考え方や価値観が違う人を赦せなかったり、受け入れなかったりします。しかし彼は「あなたがたの寛容な心が」と言います。キリスト者の心が寛容なことが前提になっています。キリスト者は寛容な心の持ち主の筈ですが、現実はそうでもないですよね。パウロが「寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい」と言うのも、ピリピの教会の人々でも、心を閉じたり、相手を裁いたりしてしまうことがあって、世の人々から距離を置かれたり、警戒されることがあったのかもしれません。キリスト者は、自分の弱さも知っています。そして、間違いを犯しやすく、決して主に褒められるような者ではないと分かっています。それに、教会の内外で人と接する中で、自分は寛容な心の持ち主ではないと思っているので、無いものを知らせることはできないから無理だ、と思ってしまいます。

 しかしパウロは「主は近いのです」と言います。主はそのような私達の全てを知った上で、可能にしてくれる方なのです。近くにいて助けてくれます。世の中に生きていると、いつも喜んでいられないのは事実です。しかし私達は福音を聞いて受け入れ、主イエスを救い主と信じて生きているのです。私達が聞いたのは福音、良い知らせです。人は主イエスを信じれば、いつも喜んで生きられるという知らせです。だからパウロはもう一度言います。「喜びなさい」と。何故喜べるのでしょう。全てを知り、全てを可能にする主が近くにいるからです。私達は主を信じています。主が共にいると信じています。でも私達は、その信仰だけで終わってしまってはいないでしょうか。

 だからパウロは言います。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」と。主に願うのに何の遠慮も要らないのです。躊躇する必要はないのです。迷いや不安や恐れは主を信じていても一杯あります。だから彼は「あらゆる場合に」と言います。私達の全てを主は知っていると信じればよいのです。願う時、私達の心には不満があります。しかし願うことが必要な状況に、主が私達を置いたのです。主に心を向けざるを得なくしたのは主なのです。主に祈れる、助けを求められることを感謝し、その感謝をもって、自分の願い事を主に知って頂きなさいとパウロは言います。主は私達が願う前から全てを知っています。何故、彼はそう言うのでしょう。それは私達自身の為です。主に祈り求める時、私達の心が自分第一から主第一になるからです。その時、私達は自分の全てを主に委ねて生きようとしているのです。その心を主が喜ぶのです。ですから「そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあった守ってくれます」と彼が言うようになります。祈っても事態は変わらないかもしれません。でも、私達の心は平安で満たされます。主は私達に必要な事をしていると信じられるからです。これはとても重要で大きな事です。私達は安心して現状を受け入れ、喜んで今を生きられます。主は私達の近くにいます。感謝です。