メッセージ(大谷孝志師)

神なき人生の空しさ
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年6月23日
伝道者の書1:1-18 「神なき人生の空しさ」  大谷孝志牧師

 今月から第4週に「伝道者の書」を学びます。口語訳、文語訳聖書は「伝道の書」、新共同訳聖書は「コヘレトの言葉」という題にしています。彼は自分を、エルサレムの王、ダビデの子と呼ぶので、ソロモンと考える人もいますが、今はそれより数百年後の3世紀後半に書かれたとされています。著者の言葉にはヨブ記同様に、深い洞察が感じられますが、ヨブが終始真っ直ぐに神を見詰め、現状の意味、御心を探ろうとしていたのに対して、確かに熱心に探し求めてはいますが、その結果は全て空だったと言います。しかし彼は、虚無主義ではありません。空しいを繰り返しましが、彼はその空しさに押し潰されていません。彼は冷静というか、理性的に、真実を、真理を追い求めているのです。彼のその信仰を、最後の結論「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」に見出すことができます。彼は人の世、自然界の営みの虚しさの中に、神の働き、関わりを見出そうとしているのです。その彼に、私は人として最も大切な事を教えられました。

 彼は最初に、全てを知ろうと熱心に探求し、知恵を尽くして調べた結果を記します。この世の出来事はすべて空しいと彼は言います。自然界の含めて地上に起きている全ては、淡々と同じ事を繰り返しているに過ぎないと言います。勿論、一人一人には固有の命があり、一人一人の人生には固有の歴史があります。今日集まっている皆さんの人生も全て違います。家族の人生もバラバラです。とは言え、彼がしているように、高い所から俯瞰的にこの世を見るとそう見えると言うのは分かる気がします。しかし彼は、何もかも、もの憂いと言います。残念ながら、全てを表面的にしか見ていないからです。私達に起きている事、また様々な自然現象は千差万別で、一つとして同じものはありません。ですから、人は伝記や随筆を読んで感動し、自分や他人に起きている事の中に新しいものや事柄を見出し、新発見の喜びを味わえます。

 しかし、俯瞰的にしか見ていない伝道者である「私」は、かつてあった事はこれからもあり、かつて起こった事はこれからも起こるのだから、新しいものは何一つないとしか言えません。確かに、歴史が繰り返すことを人類は度々経験しています。多くの識者は歴史に学べと言いますが、彼が言うように、昔の事に心を留めていないとしか思えない事が、殆どなのが現実です。ですから彼が、これから先にある事に誰も心に留めないだろうと思うのはよく分かります。彼が人類だけでなく、自分の人生そのものに深い空しさを感じてしまうことは良く分かります。しかし、私達のこの世に対する見方は違います。全てを知り、全てを支配する主を信じているからです。主は私達に日々刻々新しい人生を与え、その道を歩ませています。私達は、その主を信じる者として、この伝道の書を読み、この書に記されている言葉を通して御心を知り、御言葉として受け止め、御言葉に生きることが大切です。この伝道者のように「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか」との思いになる時も有ります。でもそれに潰されてはいけないのです。

 コヘレトは地上で行われる一切を知恵を用いて尋ね、探り出そうと心に決めて実行します。しかしそれは自分の意志によるものでなく、神が与えてさせた仕事なのです。これも聖書を読む時に心していなければならない事です。私達は自分の意志でしたい事を自由にしていると思っています。しかし全ては神がさせている事なのです。神は私達の自由意志を用いて実行させ、手に入れさせたり、失わさせたりしているのです。彼はこの世の中で行われている事の真実を求めています。本当の理由、目的、何が生じ、何が失われているのかを見極めようとしているのです。彼はこの世にそれがあると信じ、それを見極めたいのです。しかしどんなに見極めようとしても、彼にとって、全ての事は物憂く、新鮮さも感動もありませんでした。しかし、彼は世に生きています。物事に意味がなければ、その中に生きている自分の存在そのものが無意味になってしまいます。だから、存在の意味や目的を探り出そうとしたのです。しかしそのこと自体が意味のない結果に終わってしまいます。どんなに懸命に探り出そうとしても、どれもみな空しく、風を追うようなことだったからです。彼は、人間が生きる為にする全ての業を見たと言います。全ては空しくしか見えません。なぜなら「曲げられたものを、まっすぐにはできない。欠けているものを数えることはできない」からと彼は言います。私達も経験しますが、正しい事、良い事をしようと思っても、意図とは違う方法に進んでしまうこともあり、直そうとしても直らず、その悲惨さの中でもがくしかないからです。その結果、人間は完全な存在ではなく、神のように世の中の事を自在に扱う力も権限もないからと気付き、彼は諦めたのです。

 彼がそう結論付けるしかなかったのは、大切なものが欠けていたからです。彼は神も自分が探求できる対象と見たからです。彼はそれに気付けません。ですから、彼は地上に起きている事の意味を熱心に求めました。しかし彼は、それらに心を向けてはいても、神の御前に謙虚に平伏し、教えを請うてはいません。それどころか神の代弁者を気取っています。神に祈り求めず、神はこうだと決め付けています。その神は自分の心の中に作り出したものです。何の力もありません。ですから自分の知恵と知識だけで判断するしかなかったのです。彼は、神を信じている、神のことはよく知っていると思い込んでいるだけで、神無き世界に生きているのです。ですからどんなに多くの知恵と知識を得ても、彼は自分に幻滅し、それらが狂気で、愚かだと結論付けざるを得ません。そして、神が自分に辛い仕事をさせていると愚痴るのです。

 私達も無視できない事に直面した時、その意味を探ろうとします。しかし、自分の知恵と知識、経験で探ろうとしたことはないでしょうか。残念ながら、逆に悩みや痛みが大きくなるだけ、自分や周囲の人々を混乱させるだけという結果に終わってしまいます。同じ事に労苦した伝道者を反面教師にして、主イエスが教え、使徒達が実践したように、父なる神に、主イエスに全て任せ、祈りつつ尋ねましょう。彼はこの後も探求するも、人生の空しさを痛感させられ続けます。私達はしっかりと主を見上げ、御霊に助けられ、神の国、光の中を歩んでいると信じましょう。そして安心して日々を過ごしましょう。