メッセージ(大谷孝志師)

新しい人生に歩み出す
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年7月14日
使徒2:29-42 「新しい人生に歩み出す」  大谷孝志牧師

人に誕生と死があるように、物事の全てに始まりと終わりがあります。始まりと終わりがあると分かっていることは、人が生きていく上でとても大事なことです。先月26日に、人生が全く変わるかもしれない経験をしました。しかし、主は心と体を守り、支えて下さいました。緊急入院しましたが、処置の開始が遅かったので、三日間は悪化する可能性があり、24時間点滴で様子を見るとのことでした。歩きづらい、食器を持ちにくい、起きあがるのも座るのも少し不自由でした。自分の体を思う通りに動かせない大変さをつくづく知らされました。でも、自由にならない箇所を懸命に動かすことによって、少しずつ動くようになるのは、私にとって大きな喜びでした。そして始まったのだから終わりまで行けるという希望を持てました。これは本当に素晴らしいことです。それも主が力とやる気を与えて下さるからできたことです。勿論現状に満足できている訳でなく、不安や恐れはあり、こうなって欲しい、ああなればよいと思う事はありました。でも全ては主の御心なのです。ですから、何故、どうしてと考えるのではなく、今の状態は主がみ心を行っているから、こうなっているのだと考えました。また、主が今は必要でないからこのままなので、私に必要なら主が必ず行って下さると信じ、その時を待てました。そして待つ期間には終りがあると信じられること、これも素晴らしいことです。主に委ねているからこそ安心して事に当たれたからです。

 主イエスを信じていると、主は私に何が必要かを知っているので、その時が来れば今の状態を終わらせ、新しい時を始めてくれると考えられます。それだけではありません。始めがあるのだから必ず終わりがあると考えられます。終わりがあると分かるから忍耐して待てます。確かに主を信じていても苦労はあります。でも、前向きに捉えられるのです。するとその状態の中で物の見方が変わってきます。私は今の状態には主の内に理由があるからだと気付きました。自分に正さなければならない所があった事に気付いたのです。苦労は無駄にならないのです。この経験をしなければできなかったことだからから感謝です。ロマ5章に「苦難さえ喜んでいます。それは苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと私達は知っている」とあります。これは主が全てを知り、全てを支配する世界に自分も周囲の人々も生きていると知るから言えることです。必死に生きざるを得なくても、ゆとりを持てるのです。主が始め、終わらせると信じられるからできるのです。主を信じているからいつも喜び、感謝して生きられます。私達は教会に来る前は、こんな素晴らしい世界、生き方があると知りませんでした。他人の考えや行動に敏感になり、それらに縛られていたのです。でも教会の人と出会って、主がすべてを支配していると知ると、心が解放されました。現状に不安や恐れを感じても、この世は主が支配し、主が初め、終わらせる世界だからと、主を信頼し、安心して日々を過ごせます。この世界と生き方があるという福音を伝えることは私達の使命だと思います。

 ペンテコステの日に誕生した教会は、その福音、良い知らせを伝え、広め続けています。私達はその歴史の最先端に立っています。この教会の歴史にも始まりがあり、終わりがあります。この地に教会が建てられ、この地の人々、自分達の家族が救われる時は始まっています。でも世の終わりが来れば、主を信じない人は滅ぼされます。終りの時も必ず来ます。その時に後悔しては遅いのです。この事を心に刻んでこの時を、一日一日を大切に生きる者となりましょう。しかし恐れる必要はありません、安心してよいのです。「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」とヘブル13:8にある通り、終りの日まで今までと同様に、全ての時を主イエスが守り導いているからです。その主を信じましょう。全ての事は、主が定めた初めと終わりがある「時」の中にあります。全ては主の御心によって行われていると信じ、安心して前向きに、苦難を恐れず、むしろそれを糧として生きましょう。聖書に記されている使徒達のように、聖霊に満たされているからです。彼らのように主の恵みと平安の中を生きられます。感謝しましょう。

 ペテロの説教を聞いた人々は心を刺されました。これは刺し貫かれると言うような激しい言葉です。彼らの心の動揺の激しさを示します。古い時は過ぎ去り、新しい時が始まったのです。主はこの新しい時の生き方を始めさせる為に、彼に福音を伝えさせたのです。私達も人を通して真実を知らされ、この恵みの時に相応しい生き方をするにはどうしたらよいかを考えさせられました。彼は人々に「罪を赦して頂く為に、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば聖霊を受けます」と告げます。すると、彼らは罪を赦して頂きたいと願い、悔い改め、主の名によってバプテスマを受けたのです。全ては人の意志による行動です。人が主にそうして欲しいと願いますが、しかし、するのも求めに応えるのも神です。主権は神にあるからです。しかし神は人が決断し行うのを待っています。神が御子を世に与え、十字架で殺させました。その死によって世の人々の罪を取り除いたのです。悔い改めて、主イエスの名によってバプテスマを受けるなら、罪赦され、聖霊を受け、神と共に永遠に生きる道を開かれたのです。

 神が全ての人の為に救いの道を開き、新しい時が始まりました。人は主を信じ、バプテスマを受ければ救われます。しかし神はこの恵みと平安を受けるかどうかの決断を人に任せました。決断と実行の自由を人に与えたのです。神はペテロに説教させ、人々に今のままでは駄目との思いを抱かせようとし、彼は人々に決断し、実行するように勧めました。しかし、人々が彼の勧めに応え、自分の意志で、決断し実行したから、新しい人生に歩み出せたのです。

 人々はペテロの言葉を受け入れ、バプテスマを受け、その日だけで三千人程が主の弟子となり救われました。彼は主の十字架の死と復活が事実と伝えました。それ迄信じていても、人々に語れなかった事実です。彼は聖霊に満たされ大胆に伝えました。この日彼は変えられたのです。彼の内には恐れも不安もありません。彼にあるのは、人々が神が備えた新しい人生に踏み出して欲しいとの思いのみでした。彼自身が新しい人生に踏み出したからです。