メッセージ(大谷孝志師)

何が一番大切か
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年7月21日
ガラテヤ2:11-14 「何が一番大切か」  大谷孝志牧師

 パウロはエルサレム会議の成果を記した後、ここアンティオキアで起きたペテロやバルナバとの衝突事件を記します。この出来事はこの手紙の宛先であるガラテヤ諸教会とは直接関係はありません。しかしガラテヤ諸教会の人々がパウロが伝えた福音から離れていたので、人々を正しい信仰に導く為には、彼らに大きな影響力を持つ使徒ペテロと異邦人伝道に大きな成果を上げていたバルナバが犯した過ちを取り上げることが必要だったからです。

 パウロは三回伝道旅行をしましたが、二回目の時にこの地域の諸教会が誕生しました。そこにはユダヤ人キリスト者とギリシア人キリスト者がいました。彼は、全ての人は、主イエスを信じる信仰によって誰でも救われるとの啓示を主から受け、そして異邦人にその福音を伝える務めを託されていました。彼が福音を伝え、人々が信じたから、ユダヤ人だけでなく、異邦人も主イエスを信じ、諸教会の一員となっていました。しかし、この手紙の冒頭に記されているように、諸教会に大きな問題が生じていたのです。パウロがこの地を離れた後、彼が宣べ伝えた福音に反することを教える人々が来て、神に喜ばれる者であるには、ユダヤ人のようにならなければなりません。だから、神の民のしるしとして割礼を受け、律法を守りなさいと教えたのです。彼らはエルサレム教会から来たユダヤ人キリスト者でした。信仰だけでは神の民にはなれないので、神が与えた掟を守るべきと信じていたのです。彼らは主イエスを信じていましたが、古いイスラエルとしての信仰を引きずっていたからです。彼らは自分達は正しい信仰の持ち主と信じていました。でも、ユダヤ人にならなければ神に喜ばれないとの考えは、教会の働きを阻止しようとするサタンによるもので、主が彼らに啓示したものではありませんでした。彼は、ガラテヤの人々が彼らの教えに負けて、福音でないものを福音と信じて、主の御心から離れていることを知り、非常な危機感を持ちました。それでペテロ達の言動を取り上げ、読者を正しい信仰に導こうとしたのです。

 アンティオキア教会に来ていたケファ(ペテロ)ですが、使徒の働き10章を見ると、彼が異邦人に、主イエスを信じるなら、罪の許しを受けられると語っていた時、御言葉を聞いていた全ての人達に聖霊が降ることを経験しています。ユダヤ人達は、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚きました。彼は、神が異邦人をきよめたのだから、割礼を受けなくても、律法を知らなくても、自分達と同じ神の民として受け入れて良いと神に言われたと知ったのです。そしてコルネリオという救われた異邦人の家で何日か生活しました。

 だから彼はアンティオキアに来た時、当然のように、異邦人と一緒に食事を共にしていました。この教会も異邦人地域の他の教会と同じように、異邦人もユダヤ人も一緒に礼拝していたからです。しかしヤコブの所、つまりエルサレム教会から来た人々が、割礼を受けなければ神の民では無いと教会の人達を教え始めると、無割礼の人を同胞とし、食事を共にするのは律法違反に違いないので、彼らを恐れて異邦人から身を引き、離れてしまったのです。 それだけではありません。この教会はパウロとバルナバを異邦人も救う為の伝道旅行に派遣したのです。ですからユダヤ人はキリスト者の異邦人を同じ主の弟子として受け入れていました。それなのに、ペテロだけでなく他のユダヤ人も彼と一緒に本心を偽った行動を取ってしまったのです。更に、バルナバまでがその偽りの行動に引き込まれてしまったのです。人は自分より強いと思った人に影響され易く、何が正しいかでなく、どちらが自分に利益があるかを考え、正しさを基準にしなくなることがあるので注意が必要です。

 ペテロやバルナバが異邦人から身を引き、離れて行ったのを見たパウロは、福音の真理に向かってまっすぐに歩んでいないと、皆の前で彼らを叱責しました。彼にとっては、この事がこれからのキリスト教会の将来に大きな意味を持っていたからです。エルサレム教会は使徒達、イエスの兄弟達を中心とするユダヤ人キリスト者の教会で、全世界の教会の中心的教会でした。しかし前にも言ったように、彼らは割礼を受け、律法を遵守する者が神の民であると考え、異邦人は主イエスを信じて救われ、聖霊の賜物を受けただけでは不十分なので、割礼を受けてユダヤ人になり、律法遵守しなければ、神の民にはなれないと教えていました。しかし、アンティオキア教会を始め多くの教会がローマ帝国内に、つまり異邦人社会の中に誕生していました。それらの諸教会は、異邦人に門が大きく開かれた教会で、異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者が混在する教会だったのです。ですから、ユダヤ人と異邦人で神の民の理解が異なることから生じたこの問題は、教会がこれから世界伝道を展開していく上で、解決しておかなければならない問題だったのです。

 その解決の為、アンティオキア教会がパウロとバルナバ達をエルサレム教会に派遣しました。そこで開かれたのが使徒15章にあるエルサレム会議です。その結果、異邦人も割礼と律法遵守無しに神の民と認められたのです。この問題が重要だったことにはもう一つの理由があります。それは、教会の交わりの中で「パンを裂くこと」共に食事をすること、聖餐に共に与ることが大きな位置を占めていたからです。教会がこれから、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」との主の命令に従い、全世界の人々に福音を伝え、全ての人に開かれた教会にななる為には、越えなければならない問題だったのです。

 しかし、エルサレム会議で決まったとは言え、この問題が尾を引いていたのです。だからペテロだけでなく、この問題解決に共に尽力したバルナバまでもが異邦人から身を引いてしまいました。これは、折角エルサレム会議で決められた事が白紙に戻りかねないことなので、異邦人の救いの為の務めを主に託されたパウロにしてみれば、正に見過ごせない出来事だったのです。

 ペテロは異邦人と一緒に食事をすることが御心で、神に喜ばれると知ってたのに、このような大失敗をしました。神を恐れずに人を恐れてしまったからです。これは私達も陥り易い誘惑です。一番大切なのは神が何を求めているかを知ることです。私達もペテロ達のような弱さを持っています。何が神にとって一番大切かを考えるより、自分にとって一番大切な事は何かを考えてしまう弱さです。聖書はその事に気付きなさいと私達に語り掛けています。