メッセージ(大谷孝志師)

人の知恵に頼る空しさ
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年7月28日
伝道者の書2:1-26 「人の知恵に頼る空しさ」  大谷孝志牧師

 伝道者は世の中で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうとしました。彼はその中で、多くの知恵と知識を増し加えました。しかし、全ては空しく、風を追うようなものだったのです。それなら、彼はその知恵と知識に問題があるのかと考え、彼が得た知恵と知識の対極にあると言える狂気と愚かさを見極めようとしました。しかしそれも風を追うようなものでした。「知恵が多くなれば、悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す」からです。知恵と知識を尽くして尋ね、探し出そうとしても心がを満たされないと知った彼は、快楽を味わい、楽しもうとしました。しかし、すぐに底というか、内面が見えてしまい、それらも空しいと知ります。彼が並の人間でないのは、それらに価値はないし、それらを得たところで幸福ではないと知っても、決して絶望したり、真実を求めることを止めないのです。彼は、目に映るものは何一つ拒まずに手に入れ、どんな快楽も余さず試み、どんな労苦も自分の得た分として楽しむ余裕すら見せています。彼は、酒で肉体を元気づけようとしてみました。それが良い事、賢い者のすることだと決して思ってはいません。愚かな事だと分かっています。彼は自由な心の持ち主なのです。愚かさに身を任せることで、真実を見出そうとしただけです。

その後、彼は世の人々が求める最高のものを求め続け、それを獲得し続けました。彼は事業を拡張し、豊富な財産を得、それらを用いて理想的生活を展開し、満喫していきます。彼は大いなる者となり、贅沢を究めました。彼はすごいです。有り余る豊かな生活の中でも、自分自身と自分が求めるべきものを決して見失わないのです。ですから彼は「私の知恵は私のうちにとどまった」と言えました。彼は常に理性的です。彼は心の赴くままに全てを行い、しかも、あらゆるどんな労苦も苦にならずに楽しむことができました。

 しかし彼は気付きます。それらは、自分がした労苦から受けた彼の分に過ぎないし、それはかつて誰かが経験した事で、何も新しいものはないのだと。そこで彼は、自分が手がけたあらゆる事業とその為に骨折った労苦を振り返ります。彼も人間です。簡単に一朝一夕にできたのではありません。しかし、その全て空しく、風を追うようなもので益になるものは何も無かったのです。

 そこで彼は、知恵と狂気と愚かさを見つめ直して、その中に真理を見出そうとしました。確かに知恵は愚かさに優さっています。しかし現実には、優っている知者が闇の中を歩く愚かな者と同じ結末に行き着くことがよくあるのです。それなら並はずれた知者である自分の存在に意味がないと気付いてしまったのです。彼は、世の中の一人一人に本当に役立つもの、幸福にするものは何かを知ろうとしてきました。でもその為に心を尽くして行った自分の全てが空しいと知りました。彼は「人の知恵に頼る空しさ」を味わったのです。彼は自分が生きていることを憎むだけでなく、世で行われる全ては自分にとって災いだと言います。彼にはその結論しか導き出せなったのです。何故でしょう。彼は自分自身が闇の中を歩いているのに気付かないからです。

 次にこの伝道者は、自分がいかに労苦し、知力を尽くして実績を積み重ねても、その後の事は後継者に残さなければならないし、その後どうなるかも後継者次第であることを見出しました。その結果、自分がこれ迄してきた一切の労苦を憎むと言います。とは言え、もし後継者が、知恵ある者であれば、自分が労苦して積み上げてきたもの、獲得したものを意味あるものとするでしょう。しかし、その者が愚か者であれば、自分が手がけたあらゆる事業とその為に骨折った全ての労苦は意味を失ってしまうことになってしまいます。どちらになるのかはだれにも分からないからです。しかしそこで彼は「人の知恵に頼る空しさ」の虜になってしまいます。彼は良い悪いの二つの可能性を考える時、悪い可能性の方しか見えなくなってしまいます。無駄になるかもしれないのだから、この世で骨折り、知恵を使って行った一切の労苦は空しいとしか彼には言えないのです。ですから、彼は自分が骨折った一切の労苦を見回して見ると絶望しかないと言います。つまり、自分が、どんなに知恵と知識と才能をもって労苦して獲得したものであっても、それらを何の労苦をしなかった後継者に、自分が受けた分を譲らなければならないことになるからです。彼は無力感にさいなまれ、彼は絶望するしかありません。これもまた空しく、大いに悪しき事ですが、彼が人の知恵に頼っているので、そうとしか思えないのです。これも人の知恵に頼る空しさが示す現実なのです。

 しかしその中で彼は新しい事に気付きます。人の営みには確かに悲痛と苛立ちがあると思うけれど、自分がその結果に空しさを感じたり、悪しきことだと思い、絶望したりするのは、自分が知恵と知識と才能を駆使して労苦して得たものに執着しているに過ぎないからと気付いたのです。だから、夜も心が安まらないし、そんな生き方をしても、自分の一生は結局空しいだけに終わってしまうと気付き、彼は神に目を向けたのです。素晴らしいことです。

 彼はその新しい視点に立ちます。「人には、食べたりのんだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない」と言います。当たり前と言えば当たり前のことです。しかしそこから先が違います。彼は、そのようにすることもまた、神のみ手によるものだと分かったと言うからです。理性的探求を懸命に試みた結果なのではありません。それだけでは真理に到達できないからです。彼は、全ては神のみ手によるものだとの結論に達したのはどうしてでしょうか。神が、彼を愛し、守り導いていたからです。その事を示していることが、この書が聖書に入れられた理由の一つなのです。

 その時点で全ては神のみ手によると分かっても、彼は更に真実を追究しようします。神は全能で、良い事をする方であり、善人には知恵と知識と喜びを与え、罪人に善人に渡す為に集めて蓄える仕事を与えているが、実は、これも空しいと彼は言います。なぜなら、神のすることに人間は何も関与できないからです。ですから、人は人の知恵に頼って事実や真理を見極めようとする以外に方法がないからです。しかし彼は、その壁があるという現実に立って求めます、一切は空しく見える現実の中で、人はどう生きるべきかを問いつつ、神が支配する世界に生きる人の正しい生き方を模索していくのです。