メッセージ(大谷孝志師)
主は真実を見抜く方
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年7月28日
マタイ15:21-28 「主は真実を見抜く方」 牧師 大谷 孝志

 娘が悪霊に憑かれて酷く苦しんでいるカナン人の女性が、主イエスのいる所に来て「主よ、ダビデの子よ。私を憐れんでください」と叫び続けました。次週聖日礼拝の聖書箇所のバルテマイの場合、彼が叫び続けると、主は彼を呼べと言い、人々が彼を呼び、彼が主の所に行く為の手助けをしました。彼はユダヤ人でした。しかし、このカナン人女性はマルコには、ギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれの女性とあります。「主よ、ダビデの子よ」と叫んでいますが、異教徒だと思われます。その事が対応が違った理由の一つです。しかし、それが第一の理由ではありません。この出来事は、主は全ての人を愛する方であり、その主がその違いをなくす為に世に来たことを知らせるのが、第一の理由だと言えるからです。

 主は、彼女がしつこく叫び求め続けても、一言も答えませんでした。ですから、弟子達が御許に来て、あの女を去らせて下さいとお願いしなければなりませんでした。主は弟子達には答えました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには、遣わされていません。」と。その答えは、冷たく突き放した印象を受けます。でも、決して冷たいのではありません。実は「イスラエルの失われた羊」が誰を意味するかが問題のなのです。当時のユダヤ人がイスラエルの失われた羊で、神との関係が断絶されていたのです。主はそのユダヤ人を神に立ち帰らせ、真の神の民とする為に、来たのです。しかしユダヤ人は心が頑なで、自分の民の所に来た主イエスを受け入れず、十字架に付けて殺してしまったのです。ですから主は、そのようなユダヤ人に、本物の信仰とはどんなものかを考えさせる為に、この女性と対話し、その事とが聖書に記されているのです。そして彼女の信仰を明らかにすることで、そこに共にいた人々だけでなく、この出来事を知る全ての人に、主を信じるとはどういう事なのかを考えさせようとしているのです。

 主は沈黙したままだったのは、その彼女の信仰を際だたせる為だったのです。そして、彼女の方から来て、御前に平伏して「主よ、私をお助け下さい」と願いました。彼女は、自分が異邦人、異教徒であっても主イエスが自分と娘の状況を変える力ある方と信じたからです。しかし主は「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやのは良くないことです」と答えます。「子ども」はユダヤ人です。「子犬」は異邦人・異教徒です。主が「私はあなたの願いに応えられない。あなたには神の憐れみを受ける資格はない」と言ったことになります。しかし、主は彼女を冷たく突き放したのではありません。主は、彼女には憐れみを求める資格があるのを見抜いていたのです。それは彼女自身が、主の真実を見抜いていたからです。つまり、主が全ての人に求める一途な信仰を彼女が持っていたのです。

 彼女は娘が悪霊に憑かれて酷く苦しみ、母も子も極限状態にありました。主に縋り付こうとしても、弟子達にも主にも冷たくあしらわれました。主を信じていても、社会や教会の人達に、いや主に対しても同じような思いを持つ時があります。しかしその状況を自分の思いで勝手に判断してはいけないのです。そこに、信仰を放棄させよう、無意味化させようとする悪魔に付け入れさせる隙を与えることになるからです。自分に与えられた信仰に忠実でいなさいと教えています。

 私達は主を信じて救われ、聖霊の賜物を受けていますが、世に生きている限り、悪魔の誘惑にさらされています。彼女のように自分が信じる所にしっかりと立ち、主の力と愛を信じて、主に願い続けましょう。主は必ず願いに応えてくれます。