メッセージ(大谷孝志師)

主に呼ばれています
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年8月4日
マルコ10:46-52 「主に呼ばれています」  大谷孝志牧師

 主イエスと弟子達は多くの群衆と共にエリコに来ました。この大きな町は幾つかの街道が交差する交通の要所でした。旧約のヨシュア記6章によると、御言葉通りに攻撃したヨシュア率いるイスラエルにより滅ぼされました。ルカ19章には、新約時代は少しそこから離れた所にありましたこの町の金持ちザアカイが、イエスに「あなたの家に泊まる」と言われ、喜んで迎え入れた話があります。彼は主と出会い、生き方、価値観を変えられ、救われました。

 主がこの町に来たのは、十字架の死が待つエルサレムに向かう途中でした。この出来事は、主イエスの十字架の意味を教えていて、私達の心を引き締めさせます。主の一行がエリコを出て行くとティマイの子バルティマイという目の見えない物乞いが道端に座っていました。彼はナザレのイエスがいると聞いて、「ダビデの子イエス様、私をあわれんでください」と叫び始めたのです。すると多くの人達が彼を黙らせようと窘めました。何故でしょうか。主に迷惑だと思ったからです。同じような出来事が10:13-16にあります。主に触れて頂こうと子供達を連れて来た人々を、弟子達が叱った時のことです。主はその弟子達を叱りつけました。人と主では見方、考え方が違うのです。主は人の心を、その人に何が必要かを知り、その思いに応える方なのです。

 この盲人は「ダビデの子イエス様」と呼びました。ダビデは紀元前千年頃の人ですから、ダビデはイエスの父親の筈はありません。イエスが父と呼ぶのは神のみです。でもバルテマイがそう呼んだのは、ユダヤ人はダビデの子孫からメシア、救い主が生まれ、その方は理想の王として、イスラエルを復興して神の国とすると信じ、その方の出現を待望していたからです。メシアは目の見えない人の目を開くとのイザヤの預言も信じていました。だから彼はそう呼んだのです。そしてイエスに憐れみを求めました。動詞は命令形ですが要求ではありません。悲惨な状況にある私を助けてという願いです。自分が癒しを求めても、癒し、求めに応えるのは主と知っていました。頼れるのは主イエスだけだったからです。だから、彼は窘められても叫び続けました。すると、主は立ち止まり、あなたがたが彼を呼べと言います。主は悲惨な状態の彼を窘めていた人々をその彼に寄り添わせたのです。人々は一転して、彼に「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。彼(主)があなたを呼んでいる」と呼び掛けます。私達の周囲にも主の助けを必要とする人々がいます。その人達の自分の状況を変えて欲しいという心の叫びを主は知っているのです。そして、その人を私のもとに呼んできなさいと、主が私達に語り掛けていると気付きましょう。ご自分を必要とする人々の心の叫びを知る主は、その人が救われ、生き生きと生きる為に、私達の働きを必要としているのです。

 バルテマイは人々に言われて、上着を脱ぎ捨て躍り上がってイエスの所に来ました。マルコは他の福音書にはない生き生きとした彼の喜びに溢れる姿を描写しています。主は彼の心の内を知っていますが、彼に何をして欲しいかと尋ねています。何故尋ねたのでしょうか。彼の信仰を確認する為です。

 私達も主に癒しを求めて祈る時があります。しかしその時、主が私達の祈りを聞いていて、私を呼んでいると気付いているでしょうか。聖書には多くの主による癒しの奇跡があります。それを読んで、なぜ、主は私の求めには応えないのかと思う時があります。バルテマイは目が見えません。しかし主がいると人々の様子で知りました。だから、主に憐れみを求め続けたのです。私達も、主が共にいると目で確認することは出来ません。しかし教会生活の中で、聖霊の助けと導きによって、主が共にいると知っています。だから主に祈り求めているのです。今日のみ言葉を通して、私達は大切な事を教えられています。主は私達が祈り求めているのを知らないのではありません。主は彼の叫びを聞き、彼を呼べと人々に言いました。そのように、主は聖霊を通して私達に呼び掛けているのです。「大丈夫、心配しないで良いですよ。あなたを主が呼んでいます」と教えています。主は人の心の叫びを聞き取り、その必要に応えてくれるのです。一人一人が生き生きと生きることを願っているからです。私達も主に尋ねられていると信じて、主にお願いしましょう。 彼は人々の声を聞いて、主が自分を呼んでいると知りました、そして、躍り上がって主の所に来ました。私達も主の御前にいると信じましょう。主は私達に見えなくても、目の前にいます。私達はそう信じているからこそ、聖書を読み、祈るし、礼拝や集会に出席している筈です。しかし、様々な事を主に求めていながら、信じ切れていない弱さを私達が持っているのではと、聖書は私達に問い掛けています。主はその私達に「私に何をして欲しいのか」と言っています。9:24の悪霊に憑かれた息子の父親は、主に「信じる者には何でも出来る」と言われ、「信じます。不信仰な私をお助けください」と叫びました。私達もそう祈ればいいのです。主はその信仰を求めているからです。バルテマイもその信仰をもって主を信じ、喜んで主に願ったと私は思います。彼が求めると、主は「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言いました。するとすぐに彼は目が見えるようになりました。主は言葉によって彼の目を癒したのです。そして見えるようになった彼は、道を進むイエスに付いて行きました。これはマタイとルカも記しますが、マルコだけが「道を進むイエスに」と記しています。どんな意味があるのでしょう。

 この出来事でマルコは、主に求めるなら主は癒すが、主はただ求めに応えて病気を治すのではないと教えているのです。主は癒すことで、彼の人生を変えたのです。彼は物乞いで生活していましたが、心からの喜びは無かったのです。彼は自分の力と意志で行動したいと思い、主にそれを願いました。主には自分の願いを叶え、心からの喜びを与える力があると信じたからです。主は彼の願いに応え、癒しました。それは彼自身を変える為だったのです。彼は自分が癒され、主の力を自分の内に体験した時、目が見えるようになりたいと思っていただけだった自分が変わり、心から喜んで、しかも満足して生きられる自分の道を見出したのです。主は、全ての人の救いの為にエルサレムに向かっています。彼はその主に付いて行きたいと思いました。これこそが自分が喜んで生きられる道、自分らしく生きられる道と知ったからです。