メッセージ(大谷孝志師)

唯 信仰によって生きる
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年8月11日
ガラテヤ2:15-21 「唯 信仰によって生きる」  大谷孝志牧師

 聖歌424に「ただ信ぜよ、ただ信ぜよ、信ずる者はたれもみなすくわれん」とあります。これは私の好きな聖歌の一つです。昔、「ただ信じればいい」と言ったら、抵抗を感じ、教会を去ったた人がいました。パウロは、「キリストを信じることによって義と認められる」と言いますが、それは、「ただ信じなさい。分かっても分からなくても良いから、ただ信じなさい」と言うのでも「律法を守るのは難しいが、キリストを信じることの方が簡単だから、信じなさい」と教えているのでもありません。私は高校一年の時に教会に通い始めました。最初は時々、クリスマス後に熱心に通い出しました。でも、信じようと思っても、なかなか信じられなかったことを思い出します。

 パウロはここで行いと信仰について取り上げています。行いは目て評価できます。でも信仰はその人の心の内の問題で、簡単には評価できません。律法を行って義とされる生き方については、しているかしていないかで判断できますが、信仰はそうはいきません。主イエスを信じているかどうかも、その人にしか分からないし、本人も、信じていると明言できない時もあるからです。ですから、自分の生き方が義とされるかどうかは、主自身しか判断できないことなのです。パウロが「律法を行うことによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められる」と言いますが、読者に神に喜ばれる者になって欲しいと彼が心から願うからで、滅びて欲しくないからです。行いを重視するユダヤ人キリスト者もガラテヤの諸教会の人々が、パウロが伝える福音では、神に喜ばれる者になれず、滅ぼされてしまうと信じるから、神が与えた掟を守るよう、ユダヤ人と同じ生活をするよう教えていたのです。

 しかしパウロはペテロに言いました。「あなた自身ユダヤ人でありながら、ユダヤ人ではなく異邦人のように生活しているのならば、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強いるのですか」と。ペテロは異邦人達から身を引いただけでなく、異邦人に律法を遵守させようとするユダヤ人達に同調してしまったのです。このように、彼が福音の真理に向かって真っ直ぐに歩んでいないから、パウロは彼を糾弾しました。ペテロ自身も過去の経験から、人は弱く、自分の力だけでは完全な言動、生き方ができないことを、だからこそ主イエスが十字架に掛かって死に、自分の罪が赦されたことを、知っています。更に、主イエスを信じるなら、異邦人もきよい者とされ、神に喜ばれる者になれるとヤッファで知らされていました。ペテロは、ただ、主イエスを信じれば良いと知りながら、その信仰を守りきれなかったのです。

 パウロとペテロはどこが違ったのでしょう。パウロは人一倍律法守ることに熱心でした。それが神に喜ばれることと信じていました。そして教会を激しく迫害しました。しかし復活の主に出会った彼は、根底から自分の生き方をひっくり返され、主イエスを信じる者になったのです。彼は律法を行うことで義と認められようとする時、自分の力と思いだけで神に喜ばれる者になれると考えてしまい、その結果自分を誇り、律法を行わない者を見下していたことに気付いたのです。行いを救いの条件にすると、相手を裁いてしまうので、全ての人に開かれている「主イエスに全てを委ね、主を信じれば救われる」という救いの道を、その人に自分に関係ないと思わせかねないのです。

 人が救われる条件はただ一つなのです。イエスを主、キリストを信じることです。聖書の言葉、福音が理解できることや模範的信仰生活をしている等の人間側の一切の資格要件は問われません。救われるのはただ主の恵みによるからです。人が救われる条件は、主が既に整えています。人が主を信じられれば救われます。だからこそ彼は、「ただ信じればよい」と教えるのです。

 パウロは3:1で「ああ、愚かなガラテヤ人」と言います。数ある彼の手紙の中でも最も厳しい言葉です。しかしこの言葉の背後には、彼の深い思いがあります。彼は「私が今肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです」と言います。彼は自分が今生きていることを心から感謝し、自分を生かしている神を褒め称えています。読者が彼のこの信仰と思いを知って、様々な悪魔の誘惑に打ち勝ち、彼が証しする正しい信仰に生きるようにと、言葉を尽くして語り掛けているのです。その思いが3:1の言葉に秘められているのです。

 夕礼拝では何回かに分けて山上の説教を学びました。その時、そこにある主イエスの言葉とパウロのこの手紙の言葉とどちらが厳しいかを私は考えさせられました。主の言葉は一見、優しく感じられ、パウロの教えは針で刺されるような印象を受けたからです。そう受け取る人も多いのではないでしょうか。しかしある先生が「山上の説教の主の言葉には、私が真剣に行おうと思ったら、どれ一つをとっても実行できない厳しさがある」と言った時、はっとしました。主は「祈り求めるものは何でも、既に得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」と簡単に言います。主にとっては現実で、真理であっても、そう信じるのは難しいと思ってしまうのです。実は私がそう感じてしまう所に大きな問題があったのです。実はパウロも反対者達も、人は弱く、イエスのようには神を信じ切れない弱さを持つと知っていたのです。反対者は、だから律法という枠に入ることが必要だと教えました。しかし、人を枠に入れることは人の力に頼ることで、人を神から引き離してしまうことになるのです。パウロはそれでは本末転倒になってしまう。むしろ、神の懐に飛び込む人を、神は喜んで受け入れ、共に生きてくれると教えたのです。ですから私達も、弱さを行いで隠そうとせずに、弱さを包み込み、弱い私達の為に命を捨てた主イエスを信じ、主のように神を信じ切ればよいのです。

 彼は、読者が、パウロの教えは御心とは違うと言う人々に負けないで欲しい、人の力に頼らず、神に頼り、ただ信仰によって生きて欲しいと真剣に願っています。しかし違うと言う人々の力がとても強いので、彼は厳しい調子で読者に語り掛けざるを得なかったのです。私達も主の愛を信じ切れず、御力を適当に判断し諦めたら、神の恵みを自分の方から無駄にじてしまうのです。主は私の内にも生きています。主の私への恵みと愛を無駄にしないよう、そのままで良いと言う主を信じて、主に全てを委ねて生きていきましょう。