メッセージ(大谷孝志師)
私達も実を結べます
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年8月11日
ヨハネ15:12-17 「私達も実を結べます」 牧師 大谷 孝志

 私達は自分の意志でキリスト者になったのでしょうか。主イエスを信じているのでしょうか。主は「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました」と言います。私達は主に選ばれたから、この教会にいるのです。主が「あなたがた」と呼んでいるのは「最後の晩餐」の席にいた弟子達です。マルコ3章に「イエスが山に登り、ご自分が望む者たちを呼び寄せられると、彼らはみもとに来た。イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、霊を追い出す権威を持たせるためであった」とあります。聖書は私達が教会に連なっているのは偶然でも、私達の意志によるのでもないと教えています。

 次に主は、彼らを選び、任命した理由を告げます。「それは、あなたがたが行って実を結び、それが残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです」と。主は15:5で「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます」と言いました。言い換えるなら、私達は教会というキリストの体の部分であるということですが、それには、自分がとどまっているという実感が必要です。でも、その実感はどうすれば得られるのでしょうか。私達が教会に連なっていると感じるのは、礼拝や集会で兄弟姉妹と会い、話をする時ではないでしょうか。勿論、一人家で聖書を読み、祈っている時でも感じることもあるでしょう。その時も、主に祈りつつ、教会の兄弟姉妹や心に掛けている人々を思い、教会に来て欲しい、主イエスを信じて主の癒しと恵みを頂いて欲しい、救われて欲しいと願っていると思います。私達の心が、主と相手の人に向けて出て行き、相手に伝わっているのです。

 主が「とどまっている」と言うのは、礼拝や集会に出席し、或いは独りで聖書を読み祈る中で、自分が恵みを頂き、満足している状態を言うのではありません。また、「行って」というのも、会いに行く、話しに行くという行動のことだけではありません。さっき言ったように、人の事を思い、祈ることも含まれるのです。その時、その人と自分は共に主に繋がっているからです。しかし人は忘れ易いのです。ですから主は16節で、私達が教会にいて、主イエスと兄弟姉妹との交わりの中にいるとをいつも心に覚えているようにと教えているのです。しかも、主は目的をもってこの教会にいるように、兄弟姉妹といるようにしているのです。それだけではありません。主はそれによって、私達に主を信じる素晴らしさ、兄弟姉妹と共にいる素晴らしさ、自分を必要とする人に出会う素晴らしさを体験させているのです。主は、私達がそのような主の愛と力を感じられる世界、主が支配している世界にいることを、その主と人々との生活の中で実感させてくれます。

 私達は主に選ばれ、主の働き人に任命されているので、私達の祈りや願いが 実を結び、主が私達と共にいて、働いていると実感できます。天の父が必要なものを与えてくれているからです。私達はそのような世界に、そのような時の中に生きています。主は、私達がそのような者としてこの世に生きる為に、もう一度、私達が互いに愛し合うことを命じます。互いに愛し合う為には主に留まっていること、兄弟姉妹と心が繋がっていることが必要なのです。天の父は互いに愛し合っている私達に、実を結ぶ為に必要な全てを与えてくれるからです。感謝です。