メッセージ(大谷孝志師)

唯 み言葉によって
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年8月18日
ルカ4:1-13 「唯 み言葉によって」  大谷孝志牧師

(本日は、浅輪一郎神学生により、「試みに打ち勝つ」という題でメッセージをされました。本原稿は、同じ聖書の箇所から大谷牧師により書かれたものです。)

 主イエスは、福音を宣べ伝える前に、悪魔の試みを受ける為に御霊によって荒れ野に導かれました。主は4:43で「ほかの町々にも神の国の福音を伝えなければなりません。わたしはそのために遣わされたのですから」と言います。ですからこの試みは福音宣教の生活に入る準備の時だたのです。その40日の間、何も食べずにいたので、その期間が終わると空腹になりました。主イエスは聖霊によってマリアが産んだ子です・でも、完全な人間として神が世に遣わした方です。しかし、バプテスマを受けたイエスに神の霊が鳩のように下り、神は「私の愛する子、私の心に適う者」と言った。イエスが神でありながら、人であるとの宣言したのです。この「神の子と宣言されたイエスを試みた悪魔とイエスとの応答」を通して、御心に適う者の生き方、主に喜ばれる生き方について、聖書は世に生きる私達に知らせている。

 悪魔がした第一の誘惑は「神の子なら、これらの石にパンになるように命じなさい。」でした。悪魔はここで二つ事を主に問い掛けています。主は空腹です。危機に直面しています。悪魔は、そのイエスに、あなたが神の子なら、石がパンになるように命じて、危機を回避できるのではないか、と問い掛けたのです。悪魔は私達にも、主が神の子なら、なぜ、直面する問題を解決せず、なすべき事を示さず、混乱している人に道を示さず、病気を癒したり、死なないようにしなかったのかと囁やき掛けて来ることがあるので、気を付けていましょう。もう一つは、空腹という危機りますに直面した主に、悪魔は空腹により死ぬかもしれないことを強調し、空腹から抜け出すことが大事では問い掛けたのです。悪魔は私達にも、直面する問題を、自力で解決不可能な事、或いは決定的なものと感じさせることがあります。そんな時、人は、他の道や方法を顧みる余裕を失ってしまい、時には自死を選ぶことさえあります。自力で解決させようとする。それこそが悪魔の誘惑なのです。

 主はこれに対し「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と答えました。私達も悪魔の囁きに惑わされ、世にあるものが自分に必要不可欠に見える時があります。しかし生きるに為に真に必要な事は、10:39のマリアのように、主に聴き従う事、御言葉によって生きる事なのです。その信仰により私達は「神が備え、与えられる必要かつ十分なもので満たされている」と知り、感謝して生きる者になれます。

 第二の誘惑は「もし私の前にひれ伏すなら、全てがあなたのものになる」でした。悪魔はイエスを高い所に連れて行きました。そして一瞬の内に世界の国々の全てを見せ、国々の権力と栄光を全てあなたにあげようとイエスに言ったのです。悪魔はこの世のものは全て私に任せられていると言いました。ヨブ記の最初の部分を想起させる言葉です。神は悪魔がヨブに災いを下すことを許しました。この世は天にいる父なる神が全てを支配していると私達は信じています。しかし私達はそうとは思えない出来事に度々直面させられています。私達は主のように今も悪魔の誘惑にさらされているのです。

 私達は注意しなければいけません。悪魔は人に自分の思いを実現して貰う為に神に仕えようとさせます。私達も世の富を得て幸せになりたい。今すぐに幸せになりたい。世の力ある者の力を借りて望みを叶えたいと願う時があります。その時私達が、人の事はどうでも良い、自分させよければ良い、その方が幸せと考えてしまったら、悪魔の囁きに負けているのです。今日の箇所と同じ出来事がマタイにも記されていますが、そこでは主は「下がれ、サタン」と言った後、申命記6:13の『あなたの神である主を礼拝し、主にのみ仕えよ』とのみ言葉で悪魔に答えています。人は弱いです。悪魔はその弱さから生じる隙を巧みについてきます。私達も自分の希望や願いのみを実現しようとしていると気付いたら、『退け、サタン」と毅然とした態度をとり、生活の中心に「私の神である主」を置き、主を拝み、主にのみ仕えましょう。

 第三の誘惑は「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのいよなうに、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」です。悪魔は主に、聖書の言葉が真実かどうか、確かめてみたらどうかと問い掛けたのです。主にとって、神殿の屋根から飛び降りてみせることは至極簡単なことであったでしょう。しかしそうはしませんでした。なぜでしょうか。それは神を試すことになるからです。皆さんも礼拝や集会に出席して説教を聴き、聖書を読んでいます。家でも聖書を読み、祈っていると思います。主が私を愛し、祝福し、守り導く方、真実な方と信じているからです。しかし先程も言いましたように、この世に生きていると、そうとはどうしても思えない様々な出来事に直面させられます。ですからそんな時、自分が信じていることが真実かどうか確めたくなってしまう時はないでしょうか。神は私達の心の内まで知っていますが、人には御心を知ることはできません。できなくても神に任せる以外はないと信じる人は大丈夫です。しかし悪魔は私達の弱い所、愚かな所を巧みについてきます。パウロですら、ローマ7:19で「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています」と言っています。救われていても罪を引きずって生きているからです。私達も、主の愛と守りを確かめたいという欲望に負けて、不信仰だとは思いながらも、これくらいは、これをしても主は許す筈と考え、してしまうことがあります。それは、神を確かめているのと同じなのです。しかし、神は全てをご存じです。だからこう主を試みることを悪魔に許したのです。試みられた主は『あなたの神である主を試してはならない」と聖書の言葉を用いて答えました。私達が信じ、礼拝している神は、私の神なのです。私を愛し、御子を与え、十字架に掛け、その血によって私をそのままで救い、神の子とし、永遠の命を与えた神なのです。その神の愛に応えましょう。私達も神の愛を試さず、聖書が示す神に喜ばれる生き方を実践する者になりましょう。自分が生きている現実がどのようなものになっても、そのまま御心として受け止め、ご自身が試み受けることによって、神に喜ばれる者の道を示した主に全てを委ねて、この十字架と復活の主の愛の中に自分を飛び込ませるような生き方をする者になろうではありませんか。