メッセージ(大谷孝志師)

全ての営みに時が
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年8月25日
伝道者の書3:1-22 「全ての営みに時が」  大谷孝志牧師

 私は自分の人生を振り返って見て、どんな人生だったかと考えることがあります。子どもの頃は先の事など考えず、一瞬一瞬、したい事、出来ることをしていただけでした。楽しんだり、後悔したりでしたが、小6になると、友達に医者の子や家作を多く持つ家の子、後に叔父が参議院議長になった友人がいて私立中学を受験する話が出ました。私の両親は公立の中学と高校に行くように言いました。私も世の中にはいろんな家があるのだから、自分が進める道を行けばいいと思いました。そして流されるように中学生活をし、各中学の上位数名しか受験できない都立高校に入学しました。しかし、最初の中間試験の後、担任に呼び出されました。入試で上位だったのに、後ろに数人しかいない成績だったからです。でも、これが自分の人生だと思い淡々としていましたが、母親はそうでは無かったようです。近くの伝道所に行くように熱心に勧めました。自分の力ではどうにもならないと思ったからです。そして、主イエスを信じ、私は救われました。それからの人生、皆さんが経験したことのないことも色々と経験してきました。結婚し二階で両親と同居していた時、ガス中毒になりました。その頃はタバコを吸っていました私は頭が痛くタバコに火を付けようとしました。しかし止めました。その後、私は暴れたようで、下で寝ていた両親が上がって来て窓を開け、事無きを得ました。人生には様々な事が起きます。私はこの伝道者のようには自分の人生の意味を徹底的に見極めようとはしなかったことは認めます。勿論、良い結果を得ようと懸命に努力もしました。でも無駄に終わったり、逆の結果になった時もあります。自分は何もしないのに、周囲に押されて長の付く仕事もさせられました。また、多くの兄姉の魂の救いに立ち会う恵みも頂けました。

 この書の伝道者も自分の人生を振り返っています。私とは比べものにならないほど豊かな人生でした。しかしそれは全て空しかったと言います。なぜなら、彼にとって、得た様々な快楽も成し遂げた業も、全ては空しかっただけでなく、その間に骨折った一切の労苦と思い煩いにも何の意味も見出せず、ただ悲痛と苛立ちの中で心は昼も夜も安まらなかったからです。しかし私もそうでしたが、多くの人はそのような空しさの中でも淡々として生きていると思います。それでも、彼のように暗闇の中でもがくような思いを経験した事は何度もありました。彼が私と違うのは、世の全ての事には定まった時期があること、全ての営みには時があり、全ては神の御心によると気付いた点です。そしてその時々について考察した後、神のなさることは全て時にかなって美しいと言います。彼は「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」と言います。そしてこの二つの時に挟まれた人間の対照的な二つの時を挙げていきます。そこには、私達人間の全活動が網羅され、始めの事と終わりの事、肯定的な事と否定的な事、或いは相反する感情など様々な事柄が挙げられています。確かに人は世に生まれますが、必ず死んで世を去ります。植物を植えますが、植え替える時やそれが枯れた時には抜かなければなりません。

 人を殺すことは通常は経験しません。でも殺人を犯した人、他人に一生残る傷を負わせる人もいます。逆に傷を癒す人もいます。人は何らかの形で他人の人生を左右しながら生きているのが現実です。また必要に応じて、建築し、破壊もします。突然苦難の底に落とされ、悲しみ嘆く時もあれば、踊り上がるような喜びを味わう時もあります。人は誰もこのような営みを繰り返しながら、生き、喜怒哀楽を経験しているに過ぎないのです。人には良い時もあれば悪い時もあります。葛藤し、後悔もするが、喜び、感謝もします。

 9節の「働く者」は労働者だけではありません。全ての人は何かしらの働きをし、労苦しています。でも彼が「働く者は労苦して何の益を得るだろうか」と言ったのは、人の労苦についての見方が違うからです。人は何かをする場合、自分で何とかしたいと考えるので、やる気がなかった自分、技能や知恵、知識が足りなかった自分に気付くと後悔します。次は頑張ろうと思っても、取り返しが付かないと分かると、それ迄の一切の労苦を無意味に感じてしまいます。彼はそれは違うと言います。だから、全ての営みには時があると知れと言うのです。そうするなら人は全ての事に希望を持てるからです。

 ですから、1-8に挙げた全ての時は偶然に起きるものでなく、それらは神の計画と意志によって起きていると知りましょう。人は自分の人生を自分の意志によって生きる者ではなく、神が主権を持って行うことを受け取る者なのです。ですから、自分が何かを獲得しようと思わなくてよいのです。全ては「神が人の子らに与えられた仕事」に過ぎないからです。それに「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」のです。何故そう分かるのでしょう。神は人の心にだけ、永遠を与えたからです。「神である主は、その大地のちりで人を造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きる者となった(創2:7)」からです。ですから私達は、自分を含め全ては神によって造られ、御心のままに生かされていると知っているのです。そして今、神の愛を知り、安心して生きています。しかしそこ迄が人の限界です。人は人に過ぎないからです。「神が行われるみわざの始まりから終わりまでを見極めることができ」ません。とは言え、人はただ空しく日々を過ごす必要はありません。

 彼は自虐的に言うが、「人が生きている間に喜び楽し」めることがあるのは素晴らしい事です。人だけが生きる為でなく、「食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すこと」ができるのです。しかし、人の人生はそれ以上でもそれ以下でもありません、彼が言うように、人は被造物に過ぎないことを示す為、神は人が将来に対して無力のままにし、更に心に永遠を与えられたことで高慢にならないよう、不正を行う人を放置しています。更に言うように、人は獣と同じ被造物に過ぎません。人は神がする事に何かを付け加えることも取り去ることも出来ません。唯、神にひれ伏す以外にないのです、それが神が人に求めることだからです。何故でしょうか。人には自己主張しようとする思いが強く、それが人との関係や神との関係を誤らせます。ですから人は現状を御心として受け止め、神が時宜に適した良い事をしていると信じ、自分の業を楽しむ事を自分の受ける分とすれよいと彼は教えます。