メッセージ(大谷孝志師)

私にとっての主イエス
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年9月1日
マルコ11:1-11 「私にとっての主イエス」  大谷孝志牧師

 毎月マルコの福音書を学んでいます。今日は受難週の箇所になりますので、ここを通して「私にとって主イエス」どんな方なのかをご一緒に学びます。 イエスがロバの子に乗って都エルサレムに入ったことは、全ての福音書に記されています。マタイ、マルコ、ルカには、主は二人の弟子を遣わして繋がれている子ロバの綱を解いて連れて来させたとあります。マタイではただの子ロバですが、マルコとルカでは未だ誰も乗ったことのない子ロバです。「誰も乗ったことのないロバ」と特に記したのは、旧約の時代、聖なる目的の為に使われる動物などは、使われたことのないもの、清いものでなければならないとされていたからです。また、マタイだけが記していることもあります。彼は、誕生に始まる主の出来事を旧約の預言の成就と記し、神の計画の実現であることを明らかにしています。ロバの子に乗って都に入るこの出来事も、ゼカリヤ9:9にある「救い主である王到来の預言」の成就と教えます。 彼らは主に命じられた通りに出掛け、表通りにある家の戸口に子ロバが繋がれているのを見つけて、それを解きました。すると、そこにいた人々に、主が予言した通りに、「子ロバを解いたりして、どうするのか」と言われます。彼らが「主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しいたします」と主に言われた通りに言うと、彼らは許します。福音書は単に主の予知能力を示しているのではありません。人は主の言葉通りに行動すれば、主の言葉通りになる体験をすると教えているのです。全ては主の御心、ご計画によって行われているからです。主の言葉に従うことによって、私達は主の祝福に与れます。主は、世の全てを自分の計画の為に用いる権威を持つ方だからです。

 子ロバは主に遣わされた二人の弟子に、主のもとに連れて来られました。それによって、主が世に来た目的が明らかにされました。私達も「主がお入り用」だったので、教会に連れて来られたのです。私達が今教会にいるのも、「主イエスが全ての人の救い主である」ことを世の人々に知らせるという働きに私を用いる為に、ある人々を用いて私を教会に連れて来させたのです。

 さて、ロバを連れて行こうとする二人を見て、不審に思った人々が理由を尋ねました。私達も、私達が教会に行くのを不信に思った他の人から、理由を尋ねられる時があります。弟子達の答えは、世の常識から言えば答えになっていません。しかし彼らに取ってはそれが事実でした。彼らは、主が言った事は事実になると信じたから、その通りを人々に伝えただけです。私達も素直に「主イエスは救い主と信じているからです」と伝えればよいのです。それによって、私達もこの子ロバのように主の大切なご用を果たせるのです。

 エルサレムに来たイエスを歓迎した人々は自分達の上着を道に敷きました。これはⅡ列王9:16にあるように即位した王への敬意のしるしです。葉の付いた枝も王への挙順を表しています。人々は「ホサナ」と叫びました。それは「我らに救いを」と言う意味です。ゼカリヤ9章の預言を知る人々は、ダビデ王国を復興する為に神が遣わした王、救い主として熱狂的に歓迎しました。

 最初に言ったように、彼らは神がダビデ王国を復興し、自分達を救う為に新しい預言の成就者としてイエスを見たから大歓迎しました。自分達の現実を知る神が救い主を遣わし、困難な状況から救い出してくれると喜んだからです。その根拠、理由は聖書の約束の言葉でした。彼らにとっては、聖書の言葉は自分達の人生を左右し、決定付けさえする言葉だったのです。私達にとって聖書の言葉がその重さを持っているかと、自分を省みてみましょう。

 しかし、聖書の言葉、預言だけが彼らを歓喜させたのではありません。主イエスは弟子達と多くの群衆と一緒にエリコを出て、エルサレムに来ました。何故多くの群衆がイエスと行動を共にしたのでしょうか。主イエスが行った癒しの奇跡が彼らを惹き付けたからです。6:56に「村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人達を広場に寝かせて、せめて、衣の房にでも触らせて下さいと懇願した。そして、触った人たちはみな癒された」とあります。5:25-34の長血を患っていた女性も主の衣に触れて癒されました。私達も、病気と闘っている兄姉の為に主の癒しを求め、祈り続けています。当時の人達の主イエスへの思いも同じだったと思います。テレビなどで癒しの賜物を持つ人を取り上げたことがあります。でも私の記憶では、その教会に人々が押し寄せ、大教会にはなってはいません。癒しは、主が必要とする時に起こすのであって、主が人の必要に応えて起こすのではないからです。これはとても大切なことだと思います。一つ間違えると、その人に祈って貰ったり、何かして貰うと癒されると勘違いし、偶像礼拝の罪を犯してしまうからです。主は主が必要とする時に、人を通して働くのは確かです。しかし、人に囚われてしまうと、主が分からなくなってしまい、当時のエルサレムの群衆と同じように、自分達は正しい事をしていると思い込んでしまい、過ちを犯してしまう弱さを思っているのです。私達もいくら祈り求めても実現せず、落胆する時があります。パウロはコリント二 4:16-18で言います。「ですから、私達は落胆しません。たとえ私達の外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。…私達は見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」と。彼の言葉を心に刻みつつ、見えない主に目を留めていましょう。

 エルサレムの人々は、イエスの癒しの奇跡を見、「ホサナ・我らに救いを」と叫び続け、大歓迎をしました。しかし、そのエルサレムの人々が、数日後には祭司長達に扇動され、ピラトにイエスをどうしたらよいかと問われて、イエスを「十字架に付けろ」と激しく叫び続けたのです。癒しという見えるしるしに囚われた人々は、主イエスが自分達にとってどんな方なのかが分からなかったのです。大群衆の歓呼の声に迎えられて、預言の成就である子ロバに乗って来たイエスにも、捕らえられ、罵声を浴びせられるイエスにも、世の救い主、全ての人の主として世に来た御子イエスの真実の姿を見抜けなかったのです。私達もこの目で主を見ることは出来ません。しかし、主イエスは、私の助け主、癒し主、世に君臨する王なる神として今も共にいます。イエスは私の主、私の神と心に覚えつつ、今週もこの世で生きていましょう。