メッセージ(大谷孝志師)
神の国にいるから
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年9月1日
コロサイ1:15-20 「神の国にいるから」 牧師 大谷 孝志

 この手紙を書いた記者は、御子について丁寧に私達に教えています。彼が言うように神は目に見えません。しかし、私達は目に見えない神を知ることが出来ます。私達は聖書を通して、聖霊の働きによって、イエスが主である事、イエスがどのような方であるかを知ることが出来ます。彼はイエスこそが見えない神のかたちであると私達に教えています。それは教えると言うより宣言です。その事を信じるかと、聖霊が私達に迫っているのです。それが真理であり事実だからです。でも、信じるか信じないかは私達の自由なのです。私達人間には神の国のことは全く理解出来ません。以前にも言ったことがありますが、この世界の中に神の国はあります。しかし、神、主イエスと同じように、私達は目で見ることも、体で感じることも出来ません。でも、この手紙の記者を始め多くの人々が神の国について証をしています。彼らはこの世にいながら、神の国にいたからです。

 この事はとても大切です。その初代教会の人達も私達も同じ人間です。特別な能力を与えられていたのではありません。普通の人間です。でも彼らは、神の意志を、御霊の働き、人の姿で現れた御使いの様子を私達に伝えています。彼らもその時の感情で物事を言ったり、行ったりしています。またペテロなどは、主に厳しく叱られてもいます。でも彼らはイエスと共にいました。主が万物の創造者であり、支配者であると知っています。でも自分の分からないという弱さに負けて、主に叱られて後悔もしています。それでも主イエスは彼らを暖かく包み込み、優しく接しています。しかし、聖書に記されている彼らの言動を見ると、イエスをそのような方として接していたとはとても思えまえせん。でも主は、その彼らにも優しく接し、裏切ったペテロを優しい目で振り返り、彼は外に出て激しく泣いています。私達は彼らとは違うと思ってしまいがちです。でも強さにしろ弱さにしろ私達も同じ普通の人間なのです。確かに彼らとは与えられた賜物が違うと感じることがあります。教会を考えてみましょう。教会も多種多様な人の集まりです。でも主は昔の弟子達のように暖かく見舞っています。聖書を読むと主はこの私達も、昔の弟子達と同じように守っているのです。私達は自分のこれまでの歩みを振り返ってみましょう。結構自分勝手な事を言い、行動してきたのではないでしょうか。主イエスを自分に取って第一の方として信じ、礼拝してきたでしょうか。主の事より、自分の都合を優先させたことは無かったでしょうか。そうだとすれば、その時私達は、自分が神の国に生きていることを、イエスが自分の主であることを忘れていたのです。主イエスは生きて、今も私達と共にいます。だからこそ、今、私達は主を礼拝しているのです。

 何故主を礼拝出来るのかを考えてみましょう。「神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることをよしとしてくださったからです」と彼は言います。私達はかつては神を知らず、悪い行いを意識せずにしていました。しかし、神は御子の十字架の購いの血によって、私達を聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に断たせて下さったから、今私達は神の国にいて、礼拝出来るのです。私達は普通のどこにでもいるような普通の人間に過ぎません。でも主はその私達を御手をもって支え、御言葉をもって養っているのです。

 私達は見えないけれども神の国にいます。記者はその私達の為に祈っています。「主に相応しく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆるよいわざのうちに実を結び、神を知ることにいて成長しますように。神の栄光の支配により、あらゆる力を持って強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように」と。どこにいても、今、神の国にいることを思い、主と共に生きる者になりましょう。