メッセージ(大谷孝志師)

祈りは叶えられる
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年9月8日
マルコ11:12-26 「祈りは叶えられる」  大谷孝志牧師

 ここには、いちじくの木を枯らした主イエスの奇跡が記されています。これは主がエルサレムに入り十字架で死ぬ迄に行った唯一の奇跡です。しかも、主が行った唯一の呪いの奇跡です。主が何故例外的なこの奇跡を行ったかについては、様々な理由や目的が考えられてきましたが、未だに定説とされているものはありません。有力なのは、主がエルサレムとユダヤ人の信仰の現状を憂い、その将来をご自身の言動による奇跡によって表したとの説です。神の民に選ばれたユダヤ人達が、このままの状態でいたら、神に喜ばれ、諸国の人々に神の栄光を輝かす民になれず、神が唯一真の神であると世の人々に褒め称えられないので、このいちじくの木ように実を結ばぬ民として、滅ぼされてしまうと、主はいちじくの木を枯らすことで弟子達に示したのです。

 ですから、主がこう言ったのは、空腹のあまり、いちじくの木に八つ当たりをしたのではありません。なぜなら、主は荒れ野で悪魔に試みられた時に、40日間何も食べずにいて空腹を覚えましたが、毅然として、み言葉によって悪魔の誘惑を退けているからです。しかし、主が空腹を紛らわす為にいちじくの実を求めたのは事実だと思います。主は私達と同じ人間として世に生きていたからです。しかし実がある季節ではなかったのです。当然、葉の他には何も見つかりません。この当然の事実に対し、主は「今後いつまでも、だれもお前の実を食べることがないように」と呪いの言葉を発したのです。主はこれから神がエルサレム神殿とユダヤ人達にしようとすることを示そうとした言葉ですが、マルコは唐突なこの言葉に違和感を感じたのでしょう。「弟子達はこれを聞いていた」とざわざ記した言葉がその違和感を表しています。

 そしてエルサレムに着くと、主は宮で売り買いしている者たちを追い出し、宮を通って物を運ぶことも許しませんでした。マルコは「許す」という言葉を使って、主イエスが宮について大きな権限を持つことを強調しています。そしてマタイとマルコだけが、主が一見暴力行為とも見える「宮清め」と呼ばれる行為をした理由を記しています。神殿は神の家であり、祈りにより神と霊的に交わる大切な場所です。それなのに、そのエルサレム神殿をユダヤ人指導者や商人達が祈りの場ではなく「強盗の巣」していたのです。つまり、彼らが生きる為に必要なものを得る為に利用する場にしてしまったからです。

 イエスの行為を聞いたユダヤ人指導者は、イエスを殺す方法を相談し始めました。「どのようにして」とあるのは、イエスの教えに驚嘆していた群衆を刺激せずに殺す方法を検討したということで、彼らが既に殺すことを決めていたことも示します。群衆は「ホサナ・我らに救いを」と叫んだように、イエスは神が自分達の為に遣わした救い主、新しい王と考えていました。指導者達は、群衆が抱いていたその思いを考えるよりも、自分達の利益を第一にしたのです。神はユダヤ人が真の神の民となること、実を結ぶことを求めています。しかし、今のエルサレム、指導者達を含めたユダヤ人のままでは、神の民として国々の為の祝福の器となれないことを、主はこの後示します。

 エルサレム神殿は、今のままでは神との霊的な交わりの場となれません。それを彼らに明らかにするには、宮清めだけでは不十分でした。だから主は、このいちじく木を枯らし、神がしようとしている事を弟子達に見える形で示したのです。そして今のままでは、ユダヤ人だけでなく、全ての人は滅びるしかないと示したのです。ですから主はこのいちじくの木のように十字架に掛かって死んだのです。滅びを自分の死という姿で全ての人に示したのです。

 さて、主が呪ったいちじくの木が主の言葉通りに枯れていました。昨日の事を思い出したペテロが主に告げると、主は「神を信じなさい。まことに、あなたがたに言います。この山に向かって『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言った通りになると信じる者には、そのとおりになります」と彼に答えました。主は、神が木を枯らしたと信じなさいと言ったのです。私達が寝た切りの病人に「立ち上がって、歩け」と言い、心の中で疑わずに、自分の言った通りになると信じるなら、その通りになると主は約束したのです。初代教会の人々はその確信を抱いて生きていました。御霊がそれが事実と彼らに示したからです。ヘブル13:8に「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」とあります。であれば、主の約束は今日も有効です。でも、現実はどうでしょう。願い通りにはならないことを、私達は嫌という程経験しています。主は「疑わずに」と言いました。実現しないのは、私達の心の中に疑いがあるからでしょうか。主は「自分の言った通りになると信じる者には」と言いました。自分の言った通りになると信じられないからでしょうか。主は人の弱さを知っています。だから主は十字架に掛かって死に、その血によって私達を信じる者に変えたのです。主は9章の霊に憑かれた子の父親に「信じる者にはどんなこともできる」と言いました。彼は「信じます。不信仰な私をお助け下さい」と主に叫びました。信じる信じないの違いはどこにあるのでしょう。主は、自分が不信仰と気付かないでいる父親を信仰者に導き、彼の願いを叶えたのです。

 私達にも、友の癒しや個人的な願いを主に祈って、未だに叶えられない願いが多くあります。主は「ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、既に得たと信じなさい(11:24)」と私達に語り掛けています。既に得たと信じなさいと、私達の信仰を求めるのです。私達はイエスを信じていても、どんな方として信じているでしょう。そこが重要です。イエスが全てを知り、主として全てを与え得る新しい世界に私達は生きています。その主が、あなたがたは得たと信じればよいと言うのです。神にはどんなことでも出来るからです。世は、私達には先の事が分からない闇の世界です。でも神には全てが明らかな光の世界なのです。パウロが使徒16:31で「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言うように、信じれば救われる世界、主の十字架と復活によって始まった新しい時の中に私達は生きています。ヨハネ14:13の「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます」との御言葉を信じ、受け入れ「祈りは叶えられる」と確信して生きていきましょう。