メッセージ(大谷孝志師)
私達は誰に従っているか
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年9月8日
ルカ5:1-11 「私達は誰に従っているか」 牧師 大谷 孝志

 主イエスは30歳を過ぎてから、公生涯と言われる神の国の福音を宣べ伝える生活に入りました。殆ど全ての時間を選んだ弟子達と過ごし、多くの人々に悔い改めて福音を信じ、自分中心の生活から神第一の生活へとその生き方を変えるよう譬え話や比喩を通して、神に喜ばれる生き方は何かをその人々に教えたのです。

 しかしその姿も普通のユダヤ教の教師と変わらなかったようです。それでも、主イエスが素晴らしい奇跡を行うと感嘆の声が群衆から湧き上がりました。5:1にも「群衆が神の言葉を聞こうとしてイエスに押し迫って来た」とあります。主は、集まってきた群衆に教え始めましたが、ペテロ達はその話を聞いて弟子になったのではなく、ある体験をさせられる事により、主に従う者になりました。その出来事は群衆への話が終わった後に起きました。主はシモン(ペテロ)に「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」と言います。それはペテロ達漁師にとっては無意味で無駄な事でした。それに彼らは夜通し働き、恐らく疲れ切っていました。でも彼は「おことばですので網を下ろしてみましょう」と言い、そのとおりにしました。私達も聖書を読み、祈り、また礼拝や集会の中で、主にああしなさい、こうしなさいと語り掛けられていると感じた経験が有ると思います。しかしそれを自分の経験や勘、知識で駄目だと思うと、すぐに諦めたり、しようとしなかったりして、彼のようには言えないのではないでしょうか。御言葉、御心より自分の状態をまず考えてしまうのです。主が本当には分かっていないからです。

 主は「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」と言います。ペテロは子どものような信仰を持っていました。素直に深みに漕ぎ出し網を下ろしたのです。その時、彼は自分の経験も知識もほんの小さいものに過ぎないと自覚させられました。夥しい数の魚が入り、網が破れそうになったのです。彼はそれまではイエスはただの先生でした。主、救い主としての栄光は隠されていました。彼は驚くべき体験をして、目の前にいる方がどんな方かに気付かされたのです。それが彼の「主よ」という言葉に表されています。5節は「先生」でした。彼は同時に自分がどのような者であるかに気付かされました。そして「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い人間ですから」と主に自分の罪を認めました。主は彼に「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕る漁師になるのです。」と言います。彼は主の祝福の御言葉を聞き、一切を捨てて主に従いました。彼はそれ以外の道を感じなかったのです。彼にとって主イエスはそのような方だったからです。主は従うなら、豊かな実りを与えます。主は自分の力に頼って懸命に努力しても実りを得られない私達、家族や地域の人に福音を伝えていても実を結べず、疲れ切っている私達のことを知っています。

 主がペテロに「深みに」と言った所は、彼がそこでは魚が捕れないと思っている所です。主は諦める必要はないと言ったのです。私が諦めている人に福音を伝えるなら、主の栄光を見ることが出来ると聖書は教えています。その人が救われる喜びに与れるのです。諦めないでいましょう。私は誰に従っているのでしょう。

 主は私達の思いを遙かに超えた方です。ペテロが主の御言葉に素直に従ったように、私達も福音を伝えましょう。主は、私達の為に素晴らしい将来と喜びを備えているのです。希望を持ちましょう。御言葉に従うなら、主の栄光を仰ぎ見られます。私達は全ての人を愛し、救おうとしている主に従っているのですから。